市町村合併に「NO」と言えますか? (上)

地域メディア研究所代表 梶田博昭

(社団法人北海道開発問題研究調査会機関誌「しゃりばり」2001年9月号に掲載した記事を補筆再録)

 

 ■プロローグ

 「お登勢」の碑は、桜並木の陰にひっそりと建っていた。幕末から明治維新へ。激動の時代を一人の女性の生きざまに重ねて描いた船山馨の小説は、この春、NHKでテレビドラマ化され、静内町にある文学碑の周囲にたたずむ人影が心なし増えたという。

  お登勢を巻き込んだ淡路・稲田家の騒動は、維新を背景にした徳島藩からの分藩独立が核心となっている。朝廷の和解案は、稲田主従は色丹島と静内への北海道移住、徳島藩は開拓の費用として1万石余を向こう10年間拠出するという内容。これが稲田・徳島の対立の火に油を注ぎ、流血沙汰に立ち至った。

  稲田家、朝廷に対して「なぜ、徳島で集めた税を蝦夷に持って行かれるんだ」「10年で自立などとても無理な話」という非難の声が上がった。北辺開拓の美名と多額の財政負担。フロンティア魂と自立への苦闘。それから100年余の時間が流れ、お登勢の目に映る北海道は-。

 ■国の叱咤と借金背にした「まちづくり」

  朝廷批判の「徳島」を「都市」に、「北海道」を「地方」に置き換えると、地方自治をめぐる極めて現代的な問題が浮かび上がってくる。「小泉改革」の流れの中で論議を呼んだ地方交付税の削減や道路特定財源の一般財源化が、その象徴といっていいだろう。 2001年7月5日、全国町村会が東京都内で開いた「町村自治確立全国大会」では、「国の財政事情から一方的に交付税総額を一律に削減することは断固反対」などとする特別決議を満場一致で採択した。「反対」「困る」「どうしてくれるんだ」の大合唱で、大挙して駆け付けた北海道の町村長らは、国会で陳情活動も展開した。

 このとき新聞報道された、ある首長の苦悩の声。「国から『やれやれ』と言われて借金で公共事業を続けてきた。急に交付税削減では借金が返せない」。この言葉は、 (1) 地方の公共事業が国主導で行われてきた (2) 事業費は借金で工面した (3) 借金の返済には地方交付税が必要-ということを語っている。

 少々補足すると、「公共事業」とは、国や地方自治体が行う公共的な建設事業を総称する。市町村が国の補助を受けて行う「補助事業」と、市町村がそれぞれ自前で資金を用意して単独で行う「単独事業」に区分される。問題は90年代に入ってから、国は補助事業よりも市町村の単独事業による公共事業の推進に力を注いだ。市町村の側からいうと、自前でカネを用意しなければならない単独事業より、国の補助金を受ける事業の方が好都合なわけだが、国は「借金の枠を広げる」ことと「事業費の一部を将来交付税で補う」ことを条件に、単独事業に市町村の目を向けさせた。

 ■まず「足元の危機」を見据える

 市町村にとって見ると、100億円の事業費の半分50億円を自前で用意しなければ建てられなかった公共施設が、25億円を都合すれば実現でき、75億円の借金を背負っても将来地方交付税で返済を援助してもらえる。「ふるさとづくり事業」「地域づくり推進事業」「農山漁村ふるさと事業」「ふるさと市町村圏基金」など多彩なメニューが国によって用意され、市町村はこぞってこれに飛び付き、競って施設整備に走った。

 「ふるさとづくり」ブームは、一面で地域見直しの機運を高めたが、全国に似たり寄ったりの観光や交流施設が建ち並び、ハード重視の施設はやがて魅力を失い、住民は大きな借金を抱え込んだ。地方が抱える長期債務は、2001年度末で188兆円に達する見込みで、この10年間で2.4倍にも増えている(右のグラフ参照)。地方交付税は本来、教育や福祉など必要な財政需要を満たすために財源を補てんするのが目的だから、首長の嘆息にもうなづけるものがある。

 国策の失敗のツケを地方に回すとすれば確かに酷ではあるが、なぜ市町村の借金が膨れあがったのか。投入した税金が住民の暮らしをどう変えたのか。地方、特に「大いなる地方」北海道においては、この部分の検証・論議が不十分な気がする。「断固反対」のオンパレードとなった「自治確立大会」、陳情に駆け回る首長の姿には、何よりも危機を自力で乗り越えようとする気構えは感じられず、もしかしたら足元にある真の危機を危機と認識していないのかとも、思えてくる。

 ■選択肢としての市町村合併

 「地方分権」の御旗の下に市町村合併をめぐる動きが活発化している。総務省の調査では、全国180地域904市町村で合併を視野に入れた合同の研究会や勉強会が動き出している(2001年6月末時点)。この1年足らずの間にほぼ4倍となり、法定協議会の設置は25地域93市町村、任意協議会を含めた「合併予備軍」は1247市町村で、全市町村(3224)の38.7%にも達している(2001年8月末時点)。

 ここに来て合併の動きが慌ただしくなってきたのは、合併特例法の期限が切れる2005年3月までにゴールに滑り込むためには、この1年間に合併協議会設置に向けたアクションが必要なことが背景にある。特例法そのものは、合併後のまちづくりの建設事業と旧市町村単位の地域振興のための基金造成のために元利償還金の70%を地方交付税で措置する合併特例債が認められるなど、確かに「恩典」が少なくはない。総務省が今春示した「市町村の合併の推進についての要綱を踏まえた今後の取組(新指針)」は、都道府県を合併推進の「調整役・旗振り役」として仕立てるとともに、議会や首長の「抵抗勢力」を抑制するなど「飴とムチ」の合併推進策をさらに強化した。

 ■なぜ、どうする 徹底検証の好機

  合併協議会設置の経緯を見ると、住民の請求、署名による住民発議と、住民発議によらないものが相半ばしている。住民発議があっても、首長や議会によって「門前払い」にされるケースが約3分の2を占め、発議によらずに合併協を設置するケースの方が歩留まりが高い。 合併論議のきっかけをパターン化してみると、次のように大別できる。

  1. 署名による住民主導型
  2. 首長のリーダーシップ型
  3. 議員の連携型
  4. 広域行政からの発展型
  5. 都道府県による指導型

 住民指主型は、住民発議に至る一般的なパターンで、青年会議所など商工団体が旗振り役となるケース。最も牽引力が強いのが首長のリーダーシップ型で、2001年4月に誕生した茨城県の潮来市や東京都の西東京市の場合は、首長が選挙で合併を公約して当選を果たしている。また、最近は近隣自治体の議会議員が研究会を組織したり、首長、職員を交えた研究活動も盛んになってきている。特例を当てにした「駆け込み」的な動きも見られるが、少子高齢化と地方財政の逼迫、自主自律を基本とした地方分権の流れの中で、合併を一つの選択肢として、積極的に合併の論議を交わそうという傾向が強まっている。

 合併が市町村にとって唯一の「生き残り策」とはいえないが、合併について考えることは、自分たちが住むまちの現実を見直し、未来への道筋をどう付けていくか、を考えることにほかならない。合併は一つの選択肢であり、その検討の過程で別の選択肢を見出すことも可能だ。 2001年1月に西東京市として新しいスタートを切った保谷、田無両市は、「なぜ合併なのか」「合併したらどうなるのか」「新しいまちづくりをどう進めるのか」この3つについて住民が合意するために、膨大な時間とエネルギーを注いで、検討作業が行われた。

 合併によらない広域行政による対応の可能性も検討され、それぞれの自治体の歴史や風土、産業構造についても議論が交わされた。現状を見直し、未来を見通す中から、合併後の6つのプロジェクト案が浮上し、シルバー人材の専門家登録制度や各駅に隣接した子育てサポートセンターの創設、市内循環のコミュニティバスの運行などのアイデアも提起された。 そこでは「損得論」に陥りがちな合併論議に、「自分たちのまちのことは、自分たちで考える。良いと思う方向に向かって自ら行動する」という姿勢がうかがえる。 

 (註:本稿は社団法人北海道開発問題研究調査会の機関誌「しゃりばり」2001年9月号に掲載した記事を補筆再録したものです)

 

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