212の21世紀〜マチは変われるか

第3部・情報編

 3.二つの「ノー」
 判断材料欠いた住民投票/「由らしむべし」なお根強く


 「民主主義の誤作動だ」。徳島県・吉野川に国が建設を計画している可動堰の是非を問う住民投票の結果に、政府は狼狽の色を隠せませんでした。同じ時期に、東京都の石原慎太郎知事が大手銀行に的を絞った外形標準課税の導入やディーゼル車に対する排ガス規制の強化策を打ち出し、やはり国は大いにあわてました。

 中央政府に対するこの二つの「ノー」は、本来の住民自治を目指す「地方主権時代」のプロローグとも映る出来事でした。

 吉野川の住民投票を機に、自治体の政策決定に住民意思を反映させる手段として住民投票を制度化する動きが全国に広がりつつあります。これに対し、議会制民主主義との関係から住民投票に否定的な考え方も根強くあります。しかし、直接民主主義の考えも取り入れた地方自治の精神から、特定個別の政策について住民意思を反映させる手段として住民投票制度には一定の意義があると思います。

 ■安易な「○×投票」

 ただし、まちづくりや地域開発に関する政策の選択は、十分な政策論議とその前提となる情報の提供があって初めて適正であり、本来の住民自治といえます。住民投票は、住民一人ひとりに判断を委ねるわけですから、政策決定・選択の目安となる必要十分な判断材料が住民に提供されているかどうかが重要になってきます。

 新潟県の巻町では九六年に原子力発電所の建設の是非ををめぐって住民投票が行われました。同じ年に沖縄の米軍基地縮小問題で、翌九七年には、岐阜県御嵩町で産業廃棄物処分場の建設問題でそれぞれ住民投票が行われました。住民投票の考え方が未成熟な時期であったことにも起因しますが、これらの中には、十分な論議を踏まえることもなく、是非論の決着を図ろうとした側面も否定できません。

 情報の開示や検証、冷静な論議を欠いた場合、その結果はごく感情的な判断に左右されることにもなりかねません。特に、「迷惑施設」をめぐる問題では、「○×投票」そのものが、いたずらに混乱を拡大させるからです。


 ■形式的な説明責任

 吉野川のケースを見ると、住民が示した「ノー」には、可動堰そのものの是非というより、そもそも判断の材料となるべき情報の開示が不十分だったことに対する「不信感」が込められているように読み取れます。建設省の技術者は可動堰が「最善の治水対策」と自信を見せていました。十分説明を尽くしていれば、少なくとも不信感に起因した住民判断は避けられたのではないかと思います。公聴会の開催とか環境影響評価書の縦覧という手続きだけで説明責任(アカウンタビリティ)を果たしたと考えたのでしょうか。

 シェリー・アーンスタインの「参加の梯子」に照らしてみると、下から三段目の「一方的な情報提供」かその上の「形式的な意見聴取」にとどまった措置で、そもそも政策に住民の声を反映させる、という発想が欠落しているのかも知れません。江戸時代の「知らしむべからず。由らしむべし」という「お上」の思考が、市町村よりも都道府県に、さらに国に最も色濃く残っていることを示しているとすれば、非常に残念なことです。

 吉野川の住民投票が、官に対する民の「ノー」とすれば、石原知事の「ノー」は中央に対する地方(東京も国との関係では地方)の「反旗」ともいえるでしょう。「中央任せでは何も変わらない。社会改革は地方から」という知事の言葉には、一応の説得力はありますが…。