それでもわずかに夢ほどのものといえば、歌手になることだった。元々好きなこともあったが、4年間師について習い、札幌・ススキノのクラブのステージに立ったこともあった。「夜霧に消えたチャコ」「妻を恋うる唄」…。フランク永井ばりの低音の魅力というのは意外な素顔だが、結局「母親の反対で東京行きは実現しなかった」。


夢を持てなかった学生時代
 卒業後、広告会社に勤めたものの、営業を1本も取れずに半年でクビ。サラリーマンは性に合わず、親から百万円を借りて、札幌市北区に家具店を開いた。
 「具体的な目標があったわけでなく、周辺に家具店がなく、競争相手がないから楽だろう」。その程度の考えだったから、軌道に乗る訳もなかった。3食インスタントラーメン、1日45円で暮らした結果は、栄養失調に脚気。「結婚すれば身も固まる」と母が思ったのも無理からぬことだった。
 23歳・似鳥と19歳・百百代の若い2人による再スタートは、似鳥家具店にとって最初の転機となった。働き者の百百代が店を守って信用を広げ、自分は外商に。当時の家具店の「貸し売り・値引き」の常識を打ち破る「現金のみ・掛け値なしの超安値」も当たった。

 ところが、売り場面積が5倍以上の大型店の出店で売上はダウン、倒産の危機に見舞われた。自殺も覚悟するほどの追い詰められた状況の中で、人生最大といってもよいほどの転機が訪れた。昭和46(1971)年、たまたま参加した業界の米国視察。そこで、似鳥は、大きな衝撃を受けた。
 ロス郊外のプール付き住宅は1千万円ほどで手に届く。日本の半値で家具やカーテンなどを豊富に品ぞろえしたチェーン店。「ともかく豊かな住生活がそこにあった。家具を少なくした上手なコーディネートも印象的だった。日本は50年遅れている。一生かけてでも追いつきたい」。
 自分のため家族のためと考えてきた商売から「日本国民に欧米並みの豊かな住生活を提供するため」のビジネスへ。人生観そのものが大きく変わり、それまで抱いたこともなかった壮大な夢・ロマンと目標・ビジョンが、はっきりとした像を結んだ。


欧米並みの豊かな住生活を
 米国には成功経験が圧縮されている。そっくりまねするだけでも、彼の国が費やした120年の半分で追い付く。「まずその半分の30年をワークデザインし、走りながら考える」ことにしたのだ。昭和47(1972)年、「がんばり時代」が始まった。
 北区麻生に郊外店の走りとなる1400平方メートルの店舗を構えると、白石区南郷にはエアドーム店舗を導入した。メーカーからの直接仕入れ、家具店からの脱皮を目指す「ホームファニシング宣言」と挑戦が続いた。月40万円だった売上は、年商10億円に。
 「一にも二にも安く」というニトリの憲法は、昭和60(1985)年のプラザ合意をきっかけに新たな戦略をもたらした。「円高を最大のチャンスと捉え、海外からの直接輸入と海外子会社の設立により、価格破壊を一気に押し進めよう」と考えたのだ。

 現在では、売上の70%と利益のすべてを輸入関連で占めるが、ここに至るまでは、苦難も多かった。インドネシア、タイから現地の工場探しを始めたものの、「日本人を見るのは初めて」という村も少なくなかった。欧州向けの輸出実績はあっても、日本に持ってくるとばらばらに壊れる製品さえあった。
客の苦情に耐えかねた社員からも輸入に反対する声が上がったが、「あれこれ悩むのではなく、やり抜くためにどうするか、常に前向きに考え、行動する」という似鳥の明るい哲学は揺らがなかった。製法などの改善と工夫、執念で輸入拡大=ディスカウンティングの基盤を固めていった。

 平成9(1997)年に拓銀が破綻すると、融資を受けた50億円の即時返済を迫られた。すんでのところで危機を脱したが、「雨降りに傘を貸さない銀行の本質を知った。銀行に頼らない、いつゼロになってもいいような高収益体質の強化を改めて実感した」という。

目標は「世界」に雄飛
 ニトリの4つのビジョン—。全国百店舗・売上1千億円、東証1部上場、日本初のホームファニシングのフォーマット確立、ナショナルチェーン展開。これらの目標をほぼ達成し、「米国に追いつき追い越す日」を2010年に絞り込む所まで来た。
 しかし、似鳥のロマンは進化を続ける。平成23(2011)年には、300店舗・売上3千億円を目指し、欧米に実験店を開く。さらに同32(2020)年には、欧米を含めて1千店舗・売上1兆円に到達するのが「第3の夢」。2040年に1万店舗・10兆円ー。

 「今から見ると非現実的のようだけれど、ロマンとビジョンがあれば、努力を重ねていくうちに、はっきりと見えてくるようになる。今のやり方・現状否定から、前に進むことしか考えない」
 北海学園大の後輩に向けて似鳥はこういう。「ロマンとビジョンがないと空回りする。意欲、執念、好奇心も沸いてこない。志は大きく持て」

 そんな若者の志の実現を支えるために、平成17(2005)年度から母校の大学院に寄付講座を開設する。「流通・サービスを科学する」をテーマに、「世界に通用するA級のスペシャリストの人材を北海道で育てることがゴールイメージ」と語る。また、ニトリの成長の大きな力となってくれたアジア諸国に対しては、「恩返しの気持ちを込めて、将来を担う若い人材の育成に手を貸したい」と、留学生支援の奨学金事業もスタートさせる計画だ。

 あの夢を見つけ出せないでいた学生が今、北海学園のフロンティア精神を通じて北海道とアジアに新しい人材の種をまこうとしている。
(敬称略)
Romance & Vision  株式会社ニトリ代表取締役
  似鳥 昭雄 氏

 卒業から38年。似鳥昭雄は、母校・北海学園大学の特別講師として教壇に立っていた。わずか30坪の家具店を、全国百店舗・売上高1千億円の住生活提案企業に成長させたニトリのトップ。その一言半句をも聞き逃すまいと、400人の学生・市民が耳をそばだてた。
 自ら語る学生時代は、「勉強はほとんどしなかった。ゼミの先生の顔も覚えていない。友人のノートと代返を頼りに、学校に顔を出すのは1週間に1日」。学費を賄うためにアルバイトの毎日、土方もやった。「夢とか目標とか、具体的なものは何もなかった」という。