ファインプレー
 
 ▼…アルプススタンドは、いつもとどこか雰囲気が違っていた。開会式での大会長挨拶。「堂々と武士道の戦闘を発揮して非常時大会を意義付け、力の限り戦って欲しい」。熱戦を伝える新聞には「白球爆撃」「トーチカ(陣地)にも優る鉄桶の防御」といった文字が躍る。日中戦争への導火線となった蘆溝橋事件直後の甲子園。1937(昭和12)年の夏も暑かった。
 
 ▼…当時15歳だった谷口博さんは、この大会に北海中学の二塁手として初出場した。翌年の大会では、果敢なダイビングキャッチで「美技(ファインプレー)賞」も受賞している。春夏合わせて5回の出場を果たしたが、戦時色の強まった1941(同16)年以降、甲子園に球児が集まることはなかった。やがて学徒出陣が始まり、多くの名選手がプロへの道を断念した。
 
 ▼…21歳。かつての球児は、技術工兵として酷寒の満州にいた。与えられた任務は、爆雷を背に敵のトーチカに突撃し、機銃を制圧すること。毎日毎日、訓練に明け暮れた。身を投げ出して機銃におおいかぶさることができれば合格。「何のことはない、死ぬための訓練だった」。上官が甲子園美技賞のことを知っていたとも思えないが、命懸けのダイブの日々が続いた。
 
 ▼…そして8月15日。ソ連軍の北海道上陸に備えた迎撃作戦中に終戦。緊迫から解放されると、無性に野球がしたくなった。4日後の日曜日、軍服のまま札幌・円山球場に向かうと、見知った顔が集まって来た。今、古稀野球チームの監督を務める谷口さんは「くすんだボールが青空に舞うと、やけにまぶしかった」と振り返る。そんな時代があったことを、現代の球児達にも知っておいて欲しい。
(梶)
 
参考:「拓北人物夜話」の「TANIGUTI HIROSHI」に関連記事があります
2006年8月11日金曜日