最後の下宿人がパリ・セーヌ川のミラボー橋近くで水死体となって発見されたのは、1918年5月。半年後、ロシア軍との攻防の末に独立を果たした祖国で、弟ユゼフが初代大統領に就く姿を見ぬまま、ブロニスワフ・ピウスツキは流浪の生涯を閉じたのだった。

 「それ」もまた、数奇な運命をたどった。80年の時空を超えて北海道に舞い戻ることができたのも、一人の日本びいきの言語学者がいたからだった。問題は、歳月という封印をどう解くか。学者さえもが「どうしようもない」「絶望的」と口をそろえた。

 流浪の果て。北海道大学応用電気研究所(現・電子科学研究所)の朝倉利光の手に渡ったのは、昭和56(1981)年のことだった。樺太アイヌの民話や民俗音楽を録音した65本の「それ」。ピウスツキのろう管が…。
 
 流浪の学者が残した物

 ろう管は、エジソンが発明した円筒型のレコードで、植物性の樹脂(蝋)でできている。人の発声のエネルギーだけで刻まれた溝の深さは、30μm(マイクロメートル・1μmは千分の1ミリ)しかない。ピウスツキのろう管は、摩耗と傷、カビに覆われ、ろう自体が変質していた。針とセンサーを使う方法では、音声の再生が不可能だった。ピウスツキのろう管の存在は、言語学者の金田一京助が20世紀初頭に突き止めていただけに、文化人類学や民俗学、言語学者らの期待はしぼみかけていた。

 再生の希望が朝倉に託されたのは、訳があった。ろう管を取り寄せた北大の教授陣が、電子工学的に処理すれば、可能性があるかも知れないと考えたからだ。朝倉は当時、レーザーを使った光の散乱現象・スペックルの基礎研究を、顕微鏡や血流計などへの応用研究に広げていた。「微細な情報を光学的に読み取る技術を使えないか」。

 アイヌ語とは縁のなかった朝倉は、この要請に少し戸惑った。しかし、話を聞いていくうちに、ろう管に封じ込まれているものが、文化人類学上いかに貴重なものかを知った。そして、ポーランド人学者の流浪の人生、流刑の地・樺太でのアイヌとの交流、幻の歌や祈り。

 「興奮を覚え、何か協力できないか。自分の研究が役立つかも知れないと思った」

 光使い80年前の恋唄を再生

 「ドクター・スペックル」の知的好奇心とチャレンジ精神がうずいた。朝倉は、同じ研究所で音響工学を研究していた伊福部達(現・東大教授、父は北海学園大教授の宗夫)や画像解析の魚住純(現・北海学園大教授)らの協力も得ると、学際的な専門家グループを組織し、音声再生プロジェクトが動き出した。

 さまざまな方法に基づく再生装置の試作と実験が繰り返された。威力を発揮したのは、やはりレーザーによる光学式の再生法だった。ザラザラとした雑音の向こうに、かすかにリズミカルな女性の歌声がよみがえってきた。

 再生音を聞いた二風谷アイヌ資料館館長の萱野茂(元参議)は、言葉の意味を聞き取れなかったが、樺太育ちの盲目の女性アイヌは、ヤイカテカラ(恋歌)の内容に思わず笑みを浮かべた。80年前のヘチレ(踊り歌)に合わせて舞い出す者もいた。

 その後、朝倉の元には、さまざまなろう管が世界中から持ち込まれた。「レーザーの利用技術があらためて注目を浴び、文化遺産としての古いレコードから新たな発見や精神文化に触れる機会が広がるのでは」と期待を寄せる。
 
 米国留学で知った実用科学

 朝倉は、スペックル現象の特性を幅広い分野に応用しようとした。医療では皮膚や眼底の血流測定、機械工学では粒子レベルの速度測定や精密工場での微細なゴミの検出などが挙げられる。これらの業績から平成11(1999)年には、光学分野では世界最高のC・E・Kメーズ賞に輝いた。その斬新な発想とチャレンジ精神は、いったいどこからくるのかー。

 福島市郊外の飯野町の商家に生まれた朝倉は、戦時下に少年時代を過ごした。「ひ弱なこともあって楽しい思い出はほとんどなく、兄の戦死が戦争への反感を募らせた。敗戦は、精神的格闘からの解放だった」という。中学生のときに、下宿近くの映画館で戦後初めてのテクニカラーによるソ連映画「石の花」を見た。つぼみが美しい花に変わっていく様をハイスピードでとらえた映像に心を奪われた。外国映画にすっかりはまり込み、海外への関心をふくらませた。

 映画監督や外国文学へと傾きかけた思いが、数学・物理へと急旋回したのは、湯川秀樹のノーベル賞受賞(1949年)の影響だった。結局、奨学金を得ての米国留学が、外国への憧れと科学研究の夢を同時に叶えることとなった。

 後に「ドクター・スペックル」のあだ名を頂戴するまでになった光学分野の研究は、意外にもボストン大学でのアルバイトがきっかけだった。虚空写真を解析する単純な作業だったが、「フィルムという身近な媒体にある内容を情報として扱う面白さと実用面の確かさにひかれた」のだ。それは、アメリカの実用科学の本質に触れるもので、ここから始まった研究は、情報通信理論・情報技術の最先端を引っ張っていくことにもなった。

 昭和41(1966)年以来、北海道に住みつくことになったのは、偶然の悪戯によるだけではなかった。
「ここにはアメリカで培われた独創性を追求する精神的土壌がある。世界を相手にここから発信して、世界に認められるような研究の成果を上げよう」
言葉どおり、北大から世界に向けて数多くの研究論文が発信された。

 北の大地から発信しよう

 北大を定年退官しても、学術研究の可能性を秘めた北海道の精神風土を愛した。北海学園大教授となった朝倉は、地域産業の発展に貢献するシーズの創出に力を注ぎ、道内初の産学官による共同研究推進拠点「ハイテクリサーチ・学術フロンティアセンター」の中核を担う。平成17(2005)年4月には、8代目の学長に就任した。

入学式。半世紀前、人類的普遍主義に立って開学した国際基督教大学の1期生となった自身の姿を思い浮かべながら、新入生に語りかけた。

「本学は、豊かな柔軟性を持つ自由な思考力の育成を目指す。人間を自由にするための全人的な教育、リベラル・アーツが学問を深める上での基礎となる。閉鎖した思考力を解放し、チャレンジ精神を研ぎ澄まして欲しい」

「英語を学ぶ」のではなく、「英語で学ぶ」│北海英語学校の名に新時代のパイオニア養成の理念を込めた大津和多理。「計画を立て、大道を開き、堂々と歩む」ことを身をもって示した初代学長の上原轍三郎。
北海学園120年の歴史を踏まえながら、世界に視野を広げて、ドクター・スペックルの新たな挑戦も始まった。
(敬称略)
Dr. Speckle   北海学園大学学長 朝倉 利光 氏
 知性を研ぎ澄まし、世界に挑め
 スロバキアとの国境に近いザコバネは、ポーランド有数の避暑地として知られる。缶詰のような「それ」は、街はずれの閉ざされた下宿屋の石炭置き場でほこりをかぶっていたー。