「放浪の算勘師」 ▼…北関東、常磐の両高速道が交わる茨城県・友部JCTを降り、やや南に下った辺りには、堤に囲まれて細長く水田が続く。その一風変わった景観は、江戸期に水戸藩が手がけた未完の運河の名残だという。運河建設は宝永4(1707)年、藩政改革の一大事業として進められたと知り、郷土史研究家の話を聞いた。 ▼…宝永は元禄に続く時代で、いわばポストバブル経済期。窮乏する藩政を立て直そうと、水戸藩は「算勘師」今で言う経営コンサルタントの松波勘十郎を採用した。新規事業の運河は全長約10Km、延べ百万人を投入しての大型公共建設事業だった。だが、工事代金不払いなどが一揆を誘発し、勘十郎は失脚後に獄死し、工事も頓挫してしまった。 ▼…過酷な徴税など藩政改革に対する批判は強かったが、近年は勘十郎を再評価する見方も出てきているそうだ。一定の税収を確保し、これを元に商人から融資を受けて新規事業を興す。運河建設は単なる土建屋行政ではなく、水上交通の整備により東北と江戸との物流を効率化するのが狙いだった。鹿島灘経由を避ける商船の需要を見込み、通行税による資金回収も目論んでいた。 ▼…住民が「改革の痛み」に耐えきれなかったことが挫折の一因だが、工事代金に充てるはずだった藩札の禁止や大型船の建造禁止など幕府の地方財政・運輸政策も、悲劇の背景にある。さて、小泉改革や地方の自立を模索する現代に、「勘十郎堀」が語りかけるものは…。 (3.Dec,2001 梶田博昭)
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