第3話 玉音放送 岩本 政光さん (元参議院議員・昭和4年生)
 
  北部軍管区司令部発表
本十四日早朝来七時間に亘り、敵B29及び機動部隊より発進せる艦上機は、軍事施設、港湾の交通機関及び函館、室蘭、帯広、釧路市街に対し、爆弾、焼夷弾、機銃をもって波状攻撃を加えたり。
来襲機数はB29二十機、艦上機延約三百機なり。

 終戦(一九四五年)の一か月前の七月十四日、日高南方沖の米航空母艦から飛び立ったトムキャット(グラマンF6F)が、室蘭港内の船舶や日本製鋼などの軍事工場を銃爆撃した。この日の被害は比較的軽微だったが、翌十五日は、早朝から空襲警報が鳴り響いた。

 動員学徒が見た「戦場」
 岩本政光ら約百九十人の北海中学四年生は、日本製鉄輪西工場に学徒動員され、幌別町(現・登別市)で寮生活を送っていた。「来たぞ!」。十機、二十機の編隊飛行が、寮の庭先からも見えた。生徒の多くが日本軍の戦闘機と信じたが、実際は違った。やがて、「ボーン、ボーン」と炸裂音が響き、工場地帯へ向けた艦砲射撃が始まったことを知った。

 次の日、工場に出かけた北中生は、多くの死体を目の当たりにした。岩本と同期の稲村潤(昭和22年卒)は、「私たちもその場にいたら相当の犠牲者が出ていたんではないか」と回想する。そして、八月十五日。工場の詰め所に集められて、玉音放送を聞いた。主任が茶碗を床にたたきつけて悔しがり、泣く姿を見て初めて、敗戦を知った。

 岩本は「この日を境に、平和と民主主義の下に新生日本のスタートを切り、価値観ががらりと変わった。自由とは平等とは何か。自分たちなりに、連日、議論を交わし、日本と北海道の将来を考えた」という。後に、政治家として国政の場を目指した際に掲げたスローガン「創ろう!平和な国際社会」は、そんな体験に根ざしている。
 
 父子二代の志に燃える
 父・政一は、馬車追いから一代で事業を興し、後に北海道議会議長を務め、参議院議員となった。しかし、岩本が長男として生まれた当時、家は貧しく、一歳のときに白内障にかかり、右目を失明した。「なぜ自分が隻眼なのか、たくましい人たちを見る度に、子供心に悩み続けた日もあった」。それでも、父親の厳しい指導と母親の愛情、学校の仲間と先生らの励ましによって、強い心を育てていった。

 北海道開発の必要性を熱っぽく説く父の影響を受けて、北中を卒業した岩本は、北大工学部の土木工学科に進んだ。在学中に、研究成果を生かしてスキーの製造会社を作り、今でいう学生ビジネスの先駆けとなるチャレンジも見せた。社会に出てからは、ミンクの生産やタクシー事業などに取り組み、青年事業家としての道を溌剌として歩み出した。

 やがて、父の足跡を追うようにして昭和四十六(一九七一)年、四十二歳で北海道議会議員に初当選。政治家としての一歩を歩み出したが、その信条・理念は、人間・岩本政光のそれまでの人生を映し出したものだった。

 「弱い立場の人々に政治の光を当てていく。どのように時代が変わろうとも、そこに生きる人々を第一に考え、人間から出発する政治こそが私の求める政治だ」

 身を持って知った中小企業の苦難
 岩本は、隻眼である自分に悩み、そして克服したときの喜びを知っているからこそ、政治家となっても視線は市民の高さにあった。中小企業の苦難を身をもって体験してきたから、「物で栄えて心で滅びることのないように前進しなければならない」と考えた。
 
 昭和五十五(一九八〇)年六月の参議院選で、岩本は自民党から北海道選挙区に立った。過去に例のない衆参ダブル選挙に加え、ときの首相・大平正芳の選挙運動中の急死に象徴されるように、政局は混迷していた。そんな中、第二位の得票で初陣を飾った。

 道議時代に何度も足を運んだ国会議事堂が、違って見えた。「歴史の重厚さと責任の重大さに身も心も引き締まった」。商工委員会に所属した岩本は十月二十三日、初質問で苫小牧東港の石油備蓄基地問題を取り上げた。当時、イラン・イラク紛争の勃発により、世界経済は再びオイルショックに直面しようとしていた。

 技術屋の目で国会質問
 「欧米諸国の石油備蓄が百四十日前後という非常に高い水準にある中で、日本の状態はやはり遅れていると思う」
 国際的な視点に立ちながら、国の政策を問い、北海道の産業育成につながる施策を求める。また、「技術屋」の目から安全確保の方策をただし、道民の生活と密着した灯油の供給と価格の問題にも踏み込んだ。

 答弁に立ったのが、宏池会の大先輩でもあった通産大臣・田中六助。岩本は「国会の初舞台であの『ロクさん』から、北海道に対する温かい理解を示してもらった」と振り返る。

 昭和五十七(一九八二)年、総理の座に着いた中曽根康弘は、「戦後の総決算」をスローガンに掲げた。復興と成長を支えてきた産業・経済が一つの曲がり角に直面。北海道の開発政策も転換期を迎え、石炭・鉄鋼・造船の構造的不況、国鉄再建、北洋漁業の縮小など多くの課題が噴出していた。
 
 岩本は、国政登場からわずか二年目で商工委員会理事(後に委員長) に選任され、石炭産業合理化法などの審議と併せて、北炭夕張新鉱再建問題などに取り組んだ。さらに、中曽根内閣では北海道開発政務次官に抜擢され、今度は開発庁長官の「ロクさん」の補佐役に。ところが、「臨調行革」の嵐が吹き荒れる中、道開発庁の統廃合問題がクローズアップされ、いきなり難題を突き付けられた。

 「北海道の潜在力を呼び覚ませ」
 「北海道は、開発が遅れているが故に限りない可能性をはらんでいる。大きな潜在能力を呼び覚ますことこそ、日本の二十一世紀につながるはずだ。国の財政事情が悪いからといって、古い伝統的な開発の考えに立って切り詰めるのは、木を見て森を見ない誤りだ」

 結局、持論を掲げて一歩も引かない主張が、存続に結び付いた。同時に、高速交通ネットワークの整備はじめバイオや情報技術を活用した産業の振興など新世紀型の開発政策に力を注ぎ、一次産業の高度化や千歳空港の国際化、石狩湾新港整備などに道筋を付けた。

 平成二(一九九〇)年五月、くも膜下出血で倒れたが、四か月ぶりで国会に復帰すると、精力的に活動を再開した。大規模小売店の規制緩和やコメの輸入自由化問題、産炭地振興など、北海道の基幹産業や中小業者に重くのしかかる政治課題が山積み。「弱い立場の人たちに光を当てる」ことを信条とする岩本は、ひるむどころか、逆に意欲をたぎらせた。

二期十二年間にわたって参議院議員を務め、平成七(一九九五)年に政界を引退してからは、北海道軟式野球連盟、北海道フォークダンス連合会会長としてスポーツ振興や道民の健康づくりに貢献。同十二(二〇〇〇)年七月十四日、大会長の岩本が天皇賜杯全国軟式野球大会の開会を宣言した登別の球場には、五十五年前とは打って変わって平和な青空が広がっていた。
(敬称略)


 -MEMO- 
 北部軍に徴収された校舎
 昭和19(1944)年4月、本土防衛態勢の強化に伴い、北海中学の校舎は、一部を除いて北部軍第75部隊の兵舎として借り上げられることになった。北中生は、札幌豊陵工業学校に転換された札商の校舎で二部授業を受けたが、翌年には勤労動員が通年化した。終戦(1945年8月15日)の5日後に動員は解除されたものの、工場作業や援農は秋まで続いた。11月末の北部軍解散で戻ってきた北中校舎は、軍隊の内務班用に仕切のある小部屋に改造されていた。新制・北中、北海高の併置、北海学園大学への講堂貸与などの曲折を経て、現在は北海道開拓の村に本校舎の一部が保存されている(下の写真は復元された校長室)。

 -MEMO- 
 幻の「北海農業学校」構想
 ポツダム宣言に基づき、米国は昭和20(1945)年10月10日、非軍事化・民主化政策の推進を重点とした「降伏後における初期対日方針」を示した。これを受けて北海道庁は、軍管理の国有財産の教育施設転用策を検討することになった。道の意向調査に対し北海中学は、復員軍人を対象とした「北海農業学校」を恵庭村島松(現・恵庭市)の陸軍演習場に設立する構想を掲げた。計画書では「晴耕雨読ノ主義ニヨリ晴天ニハ耕作、雨天ニハ学科を教授ス」と記されているが、どのような事情かは不明ながら日の目を見ることはなかった。候補地はその後一時期、樺太(サハリン)引揚者の入植地に充てられたが、米軍に演習場として接収され、同34(1959)年に自衛隊に返還された。
新生日本を目指して 旧制北海中学の校長室(北海道開拓の村)
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものですhttp://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0