—イトウは、常に「幻の」と冠されて呼ばれますが、そもそもどんな魚なのでしょうか。

 「イトウは日本産最大の淡水魚。以前は北海道だけでなくて青森あたりまで生息していたとされるのですが、段々生息環境が悪くなって、今では北海道の中でも道東、道北の河川や湖、南の方では尻別川など。私は病院勤務で住み始めた道北でイトウと出会い、それ以来15年余り、その魅力にはまり込んでいるというわけです」

 —イトウ、あるいはイトウ釣りの魅力というのは、どんなところにあるのでしょうか。

 「第1は大きさ。昔は2メートルを超えるものがいたそうですが、最近でも大人の女性といいますから、1・5メートルぐらいのを目撃したという情報があります。釣り損ねたようですが」


 釣大鹿飲み込んだイトウ伝説今も

 —逃がした魚は大きい。イトウの大魚伝説は北海道各地に残ってますよね。

 「まあ、その大きさなら簡単には釣り上げられないでしょう。伝説としては、大イトウが大鹿を飲み込んだ話がすごい。鹿の角がお腹の中で刺さり、さすがのイトウも死んでしまったが、その巨体が川をせき止めて湖が出来た。それが摩周湖だというのもありますが、それほどでなくとも現代でも似たような話があるんですよ。戦後に駐留米軍の兵士がルアーで釣ったイトウをジープでようやく運んだとか、6尺(約1・8メートル)のイトウが網にかかり、みんなで煮て食ったという校長先生の話とか」

 —校長先生の話だから、みんな信じるわけですね。

 「ええ。大鹿はともかく、ジープや校長の話は私も信じますね。それから、イトウの魅力の第2は、希少価値。そして3番目は風格。いわば野武士のような風格が私には魅力ですねえ。イトウは川の王者ですから、これがまだいるということは、イトウを頂点にした北海道の豊かな自然環境が保たれている証拠だと思うんです。道央あたりはそのピラミッドが壊れかけてはいますが…」

 —必ずしも「幻」ではないということですか。

 「ええ、道北には結構いますし、再生産、つまり産卵して大きくなってという繰り返しが続いていることは、各年代層のイトウがいることで分かります」

 —そこで釣りの対象ともなってくるんでしょうが、イトウ釣りに先生がはまり込んだのはどんなきかっけからですか。

 「私は子供のころからの『釣りきち』で、生まれ故郷の京都の賀茂川ではオイカワなどの小魚を追い回し、琵琶湖ではフナやコイを釣ってました。北海道大学の学生時代は山スキー部に所属し、山に入ると、オショロコマなんかを釣って食ってました。荷物を減らすための現地調達というわけです。それでも、イトウは私なんかに釣れる魚だとは思ってませんでしたが、1989年の11月13日、赴任先の稚内近くの川でイトウと初めて巡り逢った。体長60センチほどでしたが、その釣り上げるときの『引き』の感触や魚体の美しさ、神秘性を目の当たりにして、一度で惚れ込んでしまったんです。このときからイトウを追いかけてやろうと決意したんです」

 —さて、大鹿伝説ではないですけど、先生が釣り上げた最大の大物は?

 「95センチが最大です。一番悔しかったのは、明らかなメーターオーバーをかけながら、水面に顔を出したところを左手のカメラでシャッターを切った直後にばらしてしまったこと。それがこの写真なんです」


  野武士の風格、神秘の魅力

 —うーん、こいつはすごい面構え。やっぱり野武士だあ。口の所にあるのはルアーですか?ここまで顔を拝めたら、釣ったと一緒じゃないですか。

 「長さ11センチのルアーです。これと比べても1メートルは超えている。でも、私は、体長をメジャーで計測して初めて『釣った』と称しているので、これはやっぱり、釣り逃した一匹」

 —希少性も魅力だとおっしゃいましたが、100年200年といった昔は、今よりももっとうじゃうじゃいたということなのでしょうか?

 「いやいや、そんなことはないと思いますよ。あの魚体の大きさで回遊しながら餌を求めるわけですから、一つの川にそんなに密集して生息できるわけではないですから。ただ、地域的にはもっと道央や道南にも広がって生息していたとは思います。生息域が狭まってきたのは確かで、それは産卵する環境が失われていったからだと思います」

 —そもそも、イトウの生態はどのぐらい明らかになっているのでしょうか?

 「産卵している写真もここにありますが、産卵場所はかなり上流部。オスは真っ赤な婚姻色に染まり、メスとペアを組みます。産卵の後は、サケのように死ぬことはなく、また翌年もと産卵を繰り返します。そして、普段は小魚を追って、河口から上流までの間を回遊している」

 —生息数の調査などは行われているのですか。

 「ある学者が道内23河川について調査した結果では、産卵に参加できる親魚は1千匹と推定されています。ただ、これには私が主なフィールドとしている宗谷地区は含まれていないと思いますよ。だって、私は1年間に100匹ほど釣るわけですから、北海道全体で千匹ということはないはず。私はイトウを追いかけてきた体験から、体長70センチを超えるくらいの親魚だけでおよそ5千匹と推定しています」
 —そんなお話をうかがうと、『幻の魚』といわれてきたけれども、『幻』は少しオーバーな感じがしてきました。

 「ええ。イトウの場合は、いなくなってしまったことによる『幻』ではなくて、いるとはいわれているけれども、その姿がなかなか見つからない、という意味での『幻』だと思うんです。その辺が、イトウの神秘性に満ちた魅力にもなっているわけです」

 —なるほど。では、イトウと人間の関わりはほかの魚に比べると薄く、あまり食用としての対象ともならなかったということですか。

 「いやいや、昔はそんなこともなくて、アイヌの人たちはかつてイトウを食べていたと思いますよ。人間の生活と密接に関わっていた証明の一つとして、北海道にはアイヌ語でイトウを指す『チライ』という地名があちこちに残ってますから。『チライ』のほかに『オビラメ』というアイヌ語の呼び名もあり、2種類のイトウがいたのではといった論争さえ起こっています」

 —同じものを別名で呼んでいたかも知れないし、セイゴ・フッコ・スズキのように、出世魚みたいに大きさで呼び名が違っていたということもあるかも知れませんね。


  親魚5千匹、幻は姿を潜めているから

 「道央の尻別川のイトウは胴も太くせり出していて、ややスマートな道北に比べると、全体にでかい。最近も1メートル20センチほどのが捕れており、確かに別の名で呼んでもいいくらいだし、厳密には種が少し異なるのかも知れません。名前についていうと、面白いのは、イトウとペリー提督が実は密接な関係にあるという話です」

 —ペリーというと、黒船で日本に来たあのペリー提督ですが。

 「ええ、イトウの学名は提督の名にちなんで『フーコ・ペリー』というんです。恐らく、函館に寄港した際に、イトウの話を聞いて採集したか実物を献上されたかして、アメリカに帰国後『未知の魚』として報告したのだと思います」

 —亡くなった作家の開高健が巨大魚釣りの話をたくさん書いており、確か、イトウによく似た巨大魚をモンゴルの川に探し求めたこともありましたが…。

 「はい、あれは『フーコ・タイメン』といってイトウにごく近い種類ですね」

 —第3の魅力として『野武士』のような風格を挙げられましたが、身体にはどんな特徴があるのですか。

 「全体が美しい銀白色で、頭から背びれにかけて黒い斑点に覆われています。頭と顎、特に下顎はとても頑丈にできてます。餌は小魚のほか、野ネズミなども食っています。腹の中からネズミが10匹以上出でてきた例も報告されています」

 —この写真の面構えといい、まさに野武士ですね。それにしても、野武士だ、幻だといわれながら彼らが北海道の地に残ってきたのは、北海道の自然環境があってこそのことだと思いますが。

 「私は、イトウという魚は、『森の魚』『湿原の魚』だと思っているんです。森があるということは産卵のための環境が守られているということ。渓流のような速い流れではなくて、ものすごくゆっくりとした流れと深い淵、それに周辺のヨシなどの植物が、彼らを守ってきたのだと思います」

 —そうすると、この北海道でも開発が進み、人間の都合優先の河川管理という考え方が浸透するに連れて、徐々に徐々にイトウを追いつめているということにもなりますが。

 「ええ、例えば木材の伐採の影響で源流部に土砂が流れ込んだり、暗渠や堰の建設が産卵の場を奪うようなことが現実に起きてますね。釧路川を主流とした釧路湿原などは、開発によってイトウがすっかり減少した例の一つで、今では『産卵床が見つかった』というようなことが大ニュースになる状況です」

(後半に続く)648A84E1-CEF3-4347-A5FF-180D5AD00A89.htmlshapeimage_1_link_0
幻の巨大魚を追う Interview 1/2 釣り師・医学博士 高木知敬さんのエコロな話  ■高木知敬(たかぎ・ともゆき)さん
 1948年、京都市生まれ。北海道大学医学部卒、大学では山スキー部に所属し、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんの後輩に当たる。第21次、28次の南極観測隊に医学医療隊員として参加。日本最北の街・稚内市の市立病院長として地域医療を支えるとともに、イトウの釣りと生態研究に当たっている。著書に「イトウ 北の川に大魚を追う」「幻の野生 イトウ走る」。
(註:写真は高木さん提供。複製・転載はできません)