第1話 特攻作戦 高木 繁光さん (北海道議会議員・昭和4年生)
 
 戦艦「大和」が沖縄戦で撃沈された昭和二十(一九四五)年四月九日。大本営に、航空総軍の幕僚が召集された。本土決戦に備えた「決号作戦」計画の最終方針が決まろうとしていた。

 「敵ノ本土上陸企図ニ対シテハ全機特攻ノ戦法ヲ強要シ之ヲ洋上ニ覆滅ス」
この要綱案に一部幕僚が異を唱えた。

 「特攻作戦は『必死の強制』である。決死隊といえども隊員生還の道を残しておくのが統帥の常道ではないか」
 「いや。本土決戦は一億国民の眼前において、昭和元寇役の再現を期する戦いである。(略)全機特攻とは、総司令官もその幕僚も最後には特攻をもってご奉公を果たすべきものである」
 結局、参謀・宮子実らの主張で、「全機特攻・洋上覆滅」の方針が採択された。

父島で「全機特攻」を待つ
 このとき、陸軍飛行少年兵・高木繁光は、東京の南はるか海上の父島にいた。十五歳ながら、日本軍最高速の「疾風(はやて)」を操る立派な戦闘機乗りだ。
 「いつでも戦う準備はできていた。お国のために死ぬことも当然と思っていた。ところが、肝心の飛行機がなかった」

 硫黄島を占領した米軍の戦闘爆撃機P51は、父島には目もくれず本土空襲に向かって行った。

 豊平町(現・札幌市豊平区)のリンゴ農園の長男に生まれた高木は、月寒小学校から札幌商業学校に進んだ。「家業を継ぐのだから、大学にはいかなくともいい」という父の言葉に渋々従った。

 当時、背広にネクタイの「札商ボーイ」は世間に定着していたが、入学した昭和十六(一九四一)年からは戦闘帽に折り襟の国防色に変わった。十二月八日、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まり、大本営発表による「赫々(かっかく)たる戦果」は、生徒の軍人志向をあおった。

 13歳で志願、戦後は慰霊の旅に
 札商、北中からは、十三歳以上を対象とした陸軍幼年学校や海軍兵学校などへの志願が目立ちはじめた。やがて、あこがれから義務的な入隊・入校へと変化していった。少年飛行兵の増員が図られた昭和十七(一九四二)年、高木は、配属将校から「お前は陸軍飛行学校だ、と割り当てられた」。東京・立川の飛行学校で一年間、基本的な操縦教育を受けると、伍長(下士官)として台湾へ派遣された。

 高木の所属部隊が米軍の攻勢に押し込まれるようにして父島へと移動したころ、北海道の各中学校では、軍や道庁による軍人志願者の割り当てが恒常化していた。北中の資料によると、昭和十九(一九四四)年六月時点で陸幼の割当数七十二に対して応募者は七十六人、同八月時点で特別幹部候補生割当百八十に対して五十八人が応募したと記されている。

 札商には志願状況に関する資料が残されていないが、同じ年の五年生は前年の四年生時に比べて一学級減の四学級編成となっている。このことからも、北中と同数かそれ以上が志願兵として入隊・入校していったと想像することができる。

 さて、父島の飛行兵は、「全機特攻」の命を受けたまま操縦桿を握ることもなく、終戦を迎え、無事帰還した。しかし、南方戦線や沖縄で多くの戦友を失った。「死んでいった先輩たちのお陰で、私たちの今日がある。せめて花を手向けたい」。
激戦地だったサイパン島やパラオ諸島へと、戦後、慰霊の旅を続けたのは、そんな気持ちからだった。
 弁論・柔道部で大活躍
 高木は復員後、リンゴ園の経営に当たる一方、開校間もない北海短期大学に入学。昭和二十七(一九五二)年に四年制の北海学園大学が開設されると、三年生に編入した。「新しい時代に対応していくためには学問が必要だ」。平和の到来が、かつての夢を実現させた。

 ところが、戦後の混乱が続いていたこともあり、教育態勢は十分とはいえなかった。校舎は札商を間借り、教授陣も不足していた。教育環境の改善を求める声が徐々に高まり、高木は自治会の委員長に押し立てられた。「当初は、自習自習の連続では学問にならない、という交渉だったが、上原(轍三郎)学長の下で大学らしさが整ってくると、今度は単位を取るのが大変だった」と振り返る。

 自治会を仕切ったことにもうかがえるように、このころから政治家としての片鱗をのぞかせた。大学弁論部の創成期の中核メンバーとして活躍し、学外の弁論大会や街頭演説でも弁舌を振るった。朝鮮戦争や警察予備隊の設置(一九五〇年)など戦後の激動期を背景に、「過乱に警鐘を打て」と題した弁論で優勝したこともある。

 また、北海学園大、北大、小樽商大の三校による第二回全道大学柔道大会では、副将を務めるなど、文武両道の一面を見せた。

 卒業後、札商の先輩でもある弁護士・中山信一郎(昭和4年卒)の事務所に一時勤め、昭和四十二(一九六七)年には、幌南学園幼稚園を設立して幼児教育に力を注ぐとともに、青少年問題協議委員、民生児童委員などを務めた。やがて、当時の北海道知事・堂垣内尚弘(元・北海学園大教授)から、「道民生活の向上のために議員の立場から力を貸してもらえないか」と声を掛けられた。

 堂垣内は、所沢の陸軍航空隊時代の上官だった。高木は「児童・青少年教育などに関わる中で、根本的な問題解決には政治の力が重要なことを痛感し始めたころだった。自分から政治の壁を突き破ろうと決意した」。
8期30年市民の視点で行動
 昭和五十(一九七五)年の道議選(豊平区)に、自民党から立って初当選。以来、連続八期、三十年にわたって北海道の発展に力を傾注してきた。

 市民・道民の視点に立って、いいものはいい、悪いものは悪い、とする率直な姿勢と行動力が持ち味だ。的確な判断をするには「まず自分の目でしっかりと確かめることから始める。殻に閉じこもらず、グローバルな視点から」という考え方は、大学時代の恩師・池田善長の教えに基づき、ときに地方政治家の枠を超えた行動にもつながった。

 原子力発電所の立地問題に直面したエネルギー問題調査特別委員長時代には、日本の議員としては初めて旧・ソ連のチェルノブイリ原発の事故現場に乗り込んだ(一九九八年)。北朝鮮の訪問時には、「北海道日朝友好親善の翼」団長の池端清一(当時・社会党代議士)とともに、「よど号」乗っ取り事件の田宮高麿らとの面談を実現した(一九九三年)。

 知事が横路孝弘に代わった野党時代は、舌鋒の鋭さが際立った。道職員の汚職事件にまで発展した食の祭典・新長期総合計画をめぐる問題では、「腐り果てた戦略プロジェクトをメンツにこだわって温存したことが、横路道政の一大汚点として後世に記録される。三か月程度の減俸処分でみそぎが終わったと考えることは、道民感情として決して許されない」と迫った。

 戦後間もなく駐留軍の不始末による火災が相次いだ時代から、消防とは縁が深い。全道二百二十六消防団を束ねる北海道消防協会会長で、全国の会長代行も務める。
(敬称略)

  -MEMO- 
 軍部に異を唱えた校長
 陸軍幼年学校は13歳以上15歳未満、中学1、2年修了が入校資格。海軍兵学校は16歳以上19歳未満で中学4年修了者。飛行予科練習生(予科練)は高等小学校卒業程度だが、甲種予科練習生は中学4年修了程度とされた。昭和16(1941)年、海軍は水兵・機関兵、陸軍は航空兵に加えて戦車兵・通信兵などに少年兵制度を導入した。少年兵志願の義務化が常態化する中、北中・札商校長の戸津高知は、札幌連隊区司令官に対しこんな文書を送った。「志願者数を学校に割当すること、結局、素質劣悪なる者をも志願せしむることとなり、かえって面白からざる事と明かなるにつき、相当考慮相成りたし」(1945年4月12日付)。軍に意見を述べること自体が勇気のいる時代だった。批判の内容は、召集方法に対するものであって、必ずしも反戦的な考えによるものではないが、生徒の自主性を重んじる戸津の教育者としての良心が読み取れる。
少年飛行兵、帰還セリ パラオ・ペリリュー島で(左から2人目が高木氏)
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものですhttp://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0