まちづくり講演録 (1)黒澤村に学ぶ住民自治の未来 |
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2004/07/05 |
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映画「七人の侍」は、1954年制作の黒澤明監督作品。往年の名俳優・三船敏郎や志村喬らが出演している。戦国時代の小さな農村を舞台に、農民が侍7人を雇って野武士の集団と戦う話。ストーリーの奇抜さやリアリズムに徹した映像が、世界的に絶賛された。50年前の娯楽大作だが、そこには今日的なテーマである「住民自治」に関するヒントがいくつも散りばめられている。 <1>随所にコミュニティ再生のヒント映画としての最大の魅力は、リアリズムに徹した映像にあるが、黒澤監督は脚本を書く段階から時代考証を丹念に行い、舞台設定にも腐心した。シナリオとは別にスタッフに配られた「儀作の村の戸籍」という黒澤メモは、そんな一面をよく現している。メモには、長老である儀作の村、つまりここでいう「黒澤村」が戸数23戸人口101人で、1戸1戸について家族構成が年齢、名前などとともに記されていた。 ■7人はシティマネジャー?!「七人の侍」を題材にコミュニティを考えよう、と自治体の若手職員や学生らとともに勉強会を開いたのは、黒澤村が実在の村のようにリアルに感じられたからだった。市町村合併問題が動き出し、小規模自治体が2級町村の時代に引き戻されるのではないか、という不安が高まる中で、黒澤村はメンバーの関心をかき立てた。 野武士は、現代に置き換えると合併問題そのものではないか、と思われた。 上映当時は、防衛問題と絡めて「七人の侍」を自衛隊と重ねる評論家もいたが、勉強会では「侍はシティマネジャーだ」の声が上がった。侍と農民が一緒になって戦うのは「協働事業」であり、三船敏郎扮する菊千代は両者の間に立つ「ファシリテーター」ではないかとも。 改めて、黒澤村を現代のコミュニティに置き換えて、「野武士」の実像を考えてみる。 ■現代の「野武士」とは…現代において、野武士、つまり住民にとってどうにも「やっかいな問題」は、処理場からあふれかえり、ダイオキシンのように環境汚染を引き起こす廃棄物であり、あるいは高齢者の介護であり、子育てである。最近では、幼児・児童を狙った犯罪の多発が、地域にとって新たな野武士の出現ともいえる。 これらは、いずれも地域住民にとって日常の暮らしに関わるごく身近な問題だ。介護はかつえは親孝行によって、子育ては家族や地域の人々に支えられてきた。黒澤村の住民からみると取るに足らないことが、現代では個人や家族の問題としてそう簡単に解決できなくなっている点に、大きな特徴がある。 さらに、環境・安全・福祉・介護・育児などに関わるこれらの問題解決の多くは、近年、行政の手に委ねられてきた。その結果として、社会コストや行政の負担が拡大し、解決策として自治体の行財政改革や合併による効率化、三位一体改革などの取り組みが行われている。 しかし、現実には、小規模自治体や、中心街から離れた周辺地域にとっては、合併や三位一体改革のマイナス面が重くのしかかる。むしろ多くの難題が、野武士集団の一気襲来にも似た様相を見せている。また、介護や子育てに象徴されるように、これらの問題の多くが、市町村よりも小さな生活共同体を単位にした対策が重要と考えられるだけに、大都市においても大きな課題となってきている。 ■まちづくりの起承転結だからこそ、野武士集団と戦った黒澤村に、問題解決のヒントが隠されているのではないか。 「七人の侍」は、上映時間208分に及ぶ長編ながら、起承転結が明瞭な構成となっている。その導入部は、どす黒く垂れた雲と地平線の間から現れる一団と蹄の轟きに象徴される。黒澤村の農民にとっては、迫り来る危機との対峙の始まりにほかならない。フェーズ2では、危機を回避するための知恵と力の結集がテーマとなる。フェーズ3は、危機との直接対決。そして終章で、村は平和を取り戻す。 この展開は、コミュニティが問題を解決していく過程そのものであり、まちづくりの起承転結ともそのまま重なり合っている。
<2>全ては情報の共有から始まる■起〜危機との対峙 黒澤村では、村の内外で起きる小さな変化を人々が敏感に感じ取る。日常とは違った動きに反応し、時間を置かずに噂や口伝えによって、これらの情報が村人の間に広がっていく。野武士の影や侍の来訪は一気に村の隅々に伝わり、娘の一人が男になりすまそうと秘かに髪を切った話は、徐々に。 これは23世帯、101人がそれぞれ無関係に暮らしているのではなく、同じ生活基盤に寄って立つからこその現象だろう。いずれにしても、断片的な情報を持ち寄り、重ね合わせることで、自分たちの身の回りで何が起こりつつあるのか、いったい何が危機なのかについて、現状認識を共有化していく。
<3>広場がある、議論がある、対立もする■承〜回避のための知恵集め広場は、討論の場・フォーラムと化す。そこでは、自由な意見や考えが発表される。一つの提案に対して検証が加えられ、ときには激しい対立も起こる。情報の共有をステップに、新たな知恵を生み出そうとする場面だ。 広場の存在と自由な討論は、民主主義の原点であり、住民自治の基盤にほかならない。もちろん、完全ではないが、結論を導くための手続(長老に最終判断を仰ぐ)があり、リーダーシップが合意をより強固にする点も見逃せない。
■「腹を空かした侍を雇うべし」
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ここを学べ その3既成概念に捕らわれない、柔軟な発想が新たな智恵を生む |
コミュニティの問題解決あるいはまちづくりを進めるに当たっては、こうした既成概念に捕らわれない柔軟な発想や、視点を変えた問題へのアプローチが、意外な解決策を導き出すことがある。二者択一的な狭い論理に拘泥せず、自由な発想で解決法を探り当てる「ライフボート・ロジック」や「コードレスアイロンの視点」を大事にしたい。
【ライフボート・ロジック】9人の水難者に6人しか乗れない救命ボート、さあどうする?欧米流合理主義では3人犠牲はやむを得ないと割り切り、日本流では妥協や懐柔に頼り、往々にして事態を一層深刻化させる。頭を柔らかくして考えれば、数人が代わる代わる泳ぎながらボートを漕ぐ、といった第三の方法も浮かぶ。 |
【コードレスアイロンの視点】アイロンかけの平均タイムは20分。技術者の目に、コードレス化は不可能に見えた。ところが、主婦の目線に立ってみたら、続けてアイロンを手にしているのは11.4秒で、袖をそろえるなど8秒間のインターバルがあった。なんのことはない、この間にアイロン台で10数秒の熱を供給してやれば良かったのだ。 |
竹槍を手にした農民が、侍とともに野武士に立ち向かう。決戦が迫ったある日、守り切れない離れ家を棄てるとの勘兵衛の判断に、3軒の主は「他人のために自分の家を棄てるなんてバカバカしい」といって戦線を離脱しようとする。そこで勘兵衛が一喝。「他人を守ってこそ自分を守れる、己のことばかりを考える奴は己をも滅ぼす」。不明を悔いて、戻る3人。
連携と協働の根底に、村人同士が強く結びつき合う絆があり、武士と農民の間には信頼が根を下ろしている。これこそが、黒澤村のしたたかな強さの根源に違いない。
米国の社会学者ロバート・パットナムは、人と人の絆や信頼でつながったネットワークを、物的資本や人的資本と並んで豊かな社会を実現する上で重要な要素と考え、「ソーシャルキャピタル」と名付けた。お笑いタレントのはなわは「出かける前にカギをかけるという習慣が佐賀にはない」と歌い、相隣関係が破綻した都市とは対極にある田舎の「防犯の砦」としてのソーシャルキャピタルを際立たせた。
この考えに立つと、黒澤村のソーシャルキャピタルは、現代の町内会や自治会に比べ抜きん出て高い。現代に当てはめれば、地域の問題を住民自身が考え、良い方向を見つけ出し、協力し合うためには、「はなわ指数」を高める=人と人の絆を深める、都市においては絆をもう一度つなぎ合わせることが求められているのだ。
地方の財政難や合併問題は、むしろコミュニティ見直しのよいきっかけともいえる。そして、共通した課題に取り組むことが絆の修復につながり、その絆が問題解決の道を開いていく。
ここを学べ その4困ったときには隣近所が互いに助け合う、みんなの利益になることには力を合わせる。人と人のつながりが、問題解決の知恵を生み出し、一緒に立ち向かう基盤となる |
「七人の侍」の終章で、雨中の死闘は一転して、笛太鼓の響きをバックにした底抜けに明るい田植えシーンに切り替わる。遠くから眺める勘兵衛がぽつりともらす。「今度もまた負け戦だったな、いや勝ったのはあの百姓たちだ」。黒澤監督は、このラストシーンを何度も書き直し、主人公を侍ではなく農民とした。
このシーンと勘兵衛の独白にはいくつもの解釈があるが、田という寄って立つところを持つ農民の強さ、守るべきもの・目標を明確に持った農民の生命力に対する賛歌であるように思える。現代に当てはめて考えれば、村(コミュニティ)は、住民が寄って立つもの(生活基盤)があってこそ成り立つ。寄って立つものを守るためにこそ、住民の自治が必要となる。寄って立つものとは、地域の産業や文化にほかならない。
ここを学べ その5住民にとって、地域にとって何が大切で何を守るべきか、明確な目標がある |
「七人の侍」はフィクションであるが、そこで語られているものはリアリティにあふれ、住民自治の近未来を指し示している。
註:本稿は、「NEXT212」主筆・梶田博昭(地域メディア研究所代表)による最近の講演録を再構成したものです