第5話 引揚列車 小林 博明さん (日本興業会長・昭和2年生)
 
 札幌駅には、まだ四番ホームまでしかなかった。二番、三番線に列車が滑り込む。ホームに降り立つ者の顔は、大人も子供もやせこけ、目だけがぎょろぎょろと異様に輝いている。

 「引き揚げ列車からは、毎日のように疲れ切った引揚者の群が吐き出されていた。『長い間ご苦労さまでした』と声をかけると、祖国に戻った安堵感からか、ハラハラと涙する人もいた」

 北海中学の三年生だった山田順三(昭和25年北海高卒)は、毎晩、終列車の汽笛を聞くまで引揚者の救援に当たった青春の日々を決して忘れない。
 そこには、多くの仲間がいた。北中生ばかりでない。一中も二中も光星も藤も、北大生や札幌女子医専(現・札幌医大)の医者のタマゴも加わった。札幌商業の桑原金二(昭和23年卒)は、「特に男子中の戦前から引き継いだ学生気質が動員力となって、救援の輪が広がった」と振り返る 。

  引揚者支援の輪、全国に広がる
昭和二十(一九四五)年十二月二十日付の北海道新聞は、「困窮在外同胞の救出へ、学徒ら起つ」と報じている。翌年四月、札幌在外父兄救出学生同盟が正式に組織されたときには、参加学生は百人にも達した。医務班、実践班が鉄道集会所を拠点に救援活動に当たっているころ、旅館「大刀館」では、北中の小林博明らが、活動資金を集める算段を練っていた。

 「だれもがその日食うにも汲々としているときに、学生に何ができるのか」
 「やっぱり、募金ぐらいしか思いつかないよ」
 「楽団を作って公演するというのはどうだ」
 「うんうん、それならお金を出してくれる市民も楽しめるしな」
 アイデアは次々と涌いて出た。

 「おれは音楽はからっきしダメだが、北中の芸達者らに片っ端から声をかけよう。何だったら米で釣ってもいいだろう」。琴似村(現・札幌市)新琴似の農家育ちの小林は、少しわくわくしてきた。

 即席の音楽隊ができると、後に「のど自慢荒らし」とも呼ばれた大村和人(昭和21年北中卒)や長内尚(同22年卒)、水岡薫(同23年卒・後に道議)らが加わった。当別町に入植した伊達家直系の伊達邦敬(同22年卒)は、特攻隊員として終戦を迎えた硬骨漢だったが、意外にも「歌謡漫談をやろう」と名乗り出た。

 体当たりのチャリティショーに喝采
 間もなく、札幌劇場を舞台に初公演の幕が開けられた。出番なしと思われた小林は、趣味で自作したアンプやスピーカー、マイクをリヤカーで持ち込み、会場を盛り上げることに一役買った。プログラムは、一時間でも場を持たせられるという伊達の歌謡漫談を柱に、器楽演奏と歌で構成した。

 公演は大成功を収めた。誰ともなく「今度は田舎回りをしよう」という声が上がり、篠路、新琴似、当別などへと馬車とリヤカーで巡業し、遠くは岩内にまで足を伸ばした。どこも盛況で、十本入りピース一箱が七円の時代に一度の公演で千円の益金を救援活動の資金として拠出することもあった。地元住民が飛び入りで歌い舞うこともしばしば。「何もかも乏しい時代に、多くの人が娯楽にも飢えていた」ことを、北中生らは実感させられた。

それにしても、生きることさえ精一杯の時代に、これほど熱い青年たちがいたとは…。山田は「何でもいい、思いっきり何かに自分をぶつけて燃焼させてみたかった」といい、小林は「自発的にひたすら汗を流した無私の行動だった」と振り返る。

 勤労動員で表彰状
 小林は、新琴似に入植した屯田兵の三代目で、「新琴似神社へ続くけもの道と、田園の中を黒い煙をはいて走る札沼線の蒸気機関車、馬車でススキノなどを回る大根売りが原風景」という。

 真空管を集めてラジオを自作し、「デンドー(電童)」のあだ名まで付いた小林は、庁立札幌工業学校(現・札幌工業高校)へ進んだ。ところが、ちょっとした正義感から機械部品を破損した級友の身代わりで処罰されたのを契機に、向学心が薄らいでいった。中退し家業を手伝ううちに、もう一度勉学の道を目指そうとしたのが昭和十九(一九四四)年夏のことだった。

 難関とされた北中の編入学試験を突破したものの、厳しさを増すばかりの戦局が希望の前に立ちふさがった。登校してみると、教室は空っぽ。担任の菊地又男(昭和10年北中卒・後に画家)がぽつり「みんな援農に行ったぞ」。翌年には、四年生の大半が室蘭の日鉄輪西製鉄所に勤労動員され、空襲も目の当たりにした。電話や無線機の補修などで腕を振るったデンドーの手元には、今、所長から渡された一枚の表彰状だけが残されている。

 札幌の都市開発を推進
 大学進学の望みは、戦後の農地改革に阻まれた。生家の農地約三十五ヘクタールは、祖父・七郎が明治二十(一八八七)年に福岡県小倉から移り住み、切り開いた土地。「思い悩む間もなく、ペンを鍬に持ち替えて野良に出た」。しかし、農業経営だけに飽き足らない小林は、アンゴラウサギの飼育や家電販売などへと事業を拡大していった。昭和三十年代に入ると、高度成長を背景に札幌の都市化が急速に進み、農業は断念せざるを得ない状況となった。
 
「それならば、父祖の築いた土地を自分の手で再開発しよう。良質な住環境が市民の暮らしと街の文化の基盤になるはずだ」
北王興業(一九六三年設立)が札幌市北区に造成した住宅団地は約二百五十ヘクタールに上る。かつて田園風景が広がった新琴似地区は、今や人口約六万人のニュータウンに生まれ変わった。

 電機・通信、建築設計、観光など幅広く事業を手がけながら、小林は、屯田兵の歴史研究をライフワークとしている。

 ライフワークは屯田兵研究
 編集委員長として資料収集などに当たった「歴史写真集・屯田兵」(一九八四年、北海道屯田倶楽部刊)は、往時をしのばせる写真とともに道内三十七兵村の世帯配置図など貴重な内容だ。入植者七千三百三十七人の家族構成や階級などを網羅した「屯田兵名簿」(二〇〇三年)は、歴史学者をも驚かせたが、小林は「まだまだ不十分。空欄を可能な限りに埋めるため、子孫の方たちの協力を得ていきたい」と意欲を見せる。

 屯田兵研究では、そのルーツにも迫り、祖父ら旧・小倉藩の入植者を札幌と室蘭まで運んだ輸送船「日の出丸」のイラストと航海録を掘り起こした。「幻の船」との出会いに感慨を深めると同時に、あらためて屯田兵とその家族の労苦に思いをはせた。

 平成十七(二〇〇五)年三月に自費出版した随想集「ふるさと新琴似〜忘れ残りの記」には、そんな先人への畏敬と郷土への愛着の念が綴られている。その中で小林は、青春時代を過ごした北中の思い出についても触れている。

 「三年編入を許された私は、これまでとはがらりと変わった学校の雰囲気に驚いた。一口で言えば『自由』。(略)『真の教育は私学より』を建学の精神として創設された北海英語学校以来の校風は、底流として深く生き続けていたように思う」
(敬称略)


 -MEMO- 
 滅私奉公からボランティアへ
 太平洋戦争の終結を南方や満州(中国東北部)などの「外地」で迎えた兵士や移住者らは、約662万人とされた。終戦から2か月ほどの間だけで復員・引揚者は30万人近くに達した。小樽や函館港には樺太(サハリン)からの引揚船が相次ぎ、札幌駅には福岡県博多から列車を乗り継いで帰郷する人々の姿も見られた。朝鮮半島の混乱が父兄の帰国を待つ学生の不安を増幅させ、昭和20(1945)年11月には、東大生らを中心に在外同胞救出学生同盟の結成母体となる2千人集会が東京で開かれた。救援の輪は一気に全国に広がり、若い機動力が行政の不足を補った。戦中の学徒動員が国策に基づくご奉公だったのに対して、窮状を見かねて自発的に涌き起こったボランティア活動だった。
同胞救出へ学徒ら起つ 北中の学級写真(昭和20年)
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものですhttp://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0