第2話 札幌空襲 倉島 斉さん (作家・昭和7年生)
 
突如として、耳をどよもしてサイレンが響き渡った。
聞きなれた、間のびした警戒警報の連続サイレンではない。
猛獣が咆哮を繰り返すような、威嚇的なたけだけしい断続サイレンだ。 
衛兵所内に叫びが上がった。
「空襲だ」
「空襲警報だ」
(札幌の灯・苔たちの歳月より)

昭和二十(一九四五)年六月二十六日。「ついに北海道にもB29がやってきやがった」。「アーペン」こと教練助手の石田勤(昭和19年北中卒)が忌々しげな表情を見せる。北海中学の校庭に掘られた防空壕では、二年生の倉島斉(本名・吉原達男)ら防空要員の生徒二十人が、闇にうずくまり息を潜めていた。

グラマン急降下に息飲む
東京大空襲(三月十日)、米軍の沖縄本島上陸(四月一日)、ドイツの降伏(五月八日)と戦局は、緊迫の度を強めていた。そうした中、北中生の大半は、室蘭の製鉄所や空知の農家などに勤労動員された。防空要員として残った倉島らは、いずれも陸軍幼年学校の志願者だったが、間近に迫る敵の機影に不安は隠せなかった。

七月十五日。ついに札幌の空にもグラマン戦闘機が襲来。倉島と中村次雄(昭和25年北海高卒)は、急降下する「ヘルキャット」のメカニックな美しさに一瞬息をのみ、あわてて壕に飛び込んだ。

八月十五日。配属将校から前日、陸幼不合格を伝えられた倉島は、その理由に納得できず、どんなに警報が鳴ろうとも学校を休むことにした。ところが、警報は二度と鳴ることはなく、代わりに聞こえてきたのは、いつもとは様子の違うラジオの声だった。

玉音放送が終わってしばらくすると、前田善三郎(昭和23年北中卒)ら北中の仲間数人が集まってきた。
「円山にこもって最後まで戦うか」
「食糧はせいぜい一週間分だろ」
「武器はどうする」
結局、北中生による「決号作戦」は、幻に終わった。

愛国少年から敗戦の子に
この日を境に、陸幼志願の愛国少年は、「敗戦の子」となった。教科書に墨を塗りたくりながら「それまでたたき込まれてきた諸々のことが、すべてウソだったのかと思った」。

倉島は、つい先日まで憎むべき敵だった米軍のキャンプ・クロフォード(真駒内基地)で、建設作業のアルバイトを始めた。そのうち常雇いとしてクラブ内のボーリング場で倒れたピンを立て直してセットするピンボーイに。四時間目が終わると早退、学業との両立は困難かと思われた。

「退学はいつでもできる。在学したままでやれるところまで頑張ってみろ」
担任の数学教師・坂下正雄の言葉が、励ましになった。「二学期が終わって通信簿を見たら、欠課時数が思ったより少ない。早退にこっそり手心を加えてくれたに違いない」。倉島はただただ師恩に感謝した。

文学全集読みあさる
そんなある日、同期の相神達夫が、「北中文芸を俺たちの手で復刊させるぞ。しかし、新しい文学の創造なのだから、文芸誌でなくて文学誌だ。お前も何か書け」といってきた。本は大好きだった。一期下の青山哲(昭和26年北海高卒)の父親から許されて新潮社の世界文学全集を読みあさりもした倉島の、文才が頭をもたげ始めた。

「エチュード」。入水した最後の一高生・原口統三の遺稿集にちなんだ文学誌は、終戦の翌年の十一月に創刊された。表紙を飾った裸婦像が、自由の時代を象徴する。筆を振るったのは、新聞部のほか倉島や同期の朝倉賢、山田順三ら演劇部のメンバーだった。詩五編を載せた「倉島斉」のペンネームは、投稿者を多く見せかけようと相神が勝手に付けたものだった。

吉原達男の本名で綴った創作「綱を渡る男」は、物理の法則にこだわって墜落死した男と、「渡るから綱があるのだ」と主張する男を対比させた戯曲風の作品。ジンタの響きや観衆の人いきれを感じさせる表現には、後に優れたラジオドラマを描いた作家・倉島斉の萌芽がうかがえる。

「エチュード」原点に文芸の道
「クロフォード見学記」で道新賞を受賞するころには、文学の道を見定め、北大文学部国文学科へ。在学中に、北海道学芸大札幌分校に進んだ朝倉とともに同人誌「凍檣(とうしょう)」に参加した。しかし、「ペンは一本、箸は二本」、倉島にとって厳しい時代が続いた。プロの詐欺師に泣かされもした。

それでも、同人誌を通じて互いに励まし合い、ときには激しい文学論を戦わせた。「日本文学の伝統に捕らわれずに書くべきだ」とする札幌医大生・渡辺淳一(後に直木賞作家)に対し、「源氏物語は簡単に否定できない世界だ」とぶつかり合ったのも、この時期だ。

いったんペンを置き、音威子府高校の教壇に立っていた倉島は、札幌の同人誌「くりま」(一九六五年発足)のメンバーで北海高同期の朝倉、山田らに後押しされて創作活動を再開した。そして昭和四十五(一九七〇)年、「くりま」の推薦を受けた小説「老父」が、第二回新潮新人賞を勝ち取った。肉親の絆の一方で心の底に潜む憎悪が表出したときの残忍さを描いた作品で、授賞式では渡辺が介添え役を務めた。

「絆と憎悪」巧みに描く
受賞後第一作として「新潮」に発表した「兄」は、翌年下期の芥川賞候補となった。さらに、当別高校に移って以降は、ラジオドラマの脚本に精力を注いだ。NHK・FMシアターなどに数多くの作品を送り出し、名優・大滝秀治主演の「絆」と「ちりりん ちりりん」は、二年連続で文部大臣賞に輝いた。

「絆」は、父子の運命的な対決を。「ちりりん ちりりん」は、自殺のまねごとをするしか存在を示す術を持たない老人たちを描き、やがて来る高齢化社会のひずみを鋭く衝いた。

そんな視点もあってか、近年は、シニアを対象にした文芸塾や「源氏物語講座」を主宰する。最高齢が九十歳という塾生の作品集「篝火」には、人生の甘辛とともに、老いも糧とするしたたかな一面もにじむ。戦争を乗り越えてきた世代が今、倉島とともにペンを走らせることに喜びを感じている。
(敬称略)



-MEMO- 
札幌空襲
昭和20(1945)年7月15日、銭函方面から飛来した米軍艦載機・グラマン2機が、手稲村(現・手稲区)の軽川製油所や札幌村丘珠(現・東区)の飛行場、石狩町(現・石狩市)などを銃爆撃した。、14人の犠牲者の一人・板東喜三郎は丘珠の農場で機銃掃射を受けた。北中2年生だった三男・厳(昭和25年卒)は、援農先の美唄町(現・美唄市)で悲報を聞いた。7月末に美唄を去るとき、峰延の駅頭で百数十人の北中生を前に、町長は「悲報に接するも凛然として敢えて家に帰らず、悲憤の涙を勤労の聖汗に秘して敢闘す」として厳を表彰した。


 -MEMO- 
 二十歳のエチュード
 昭和21(1946)年、神奈川県の逗子海岸で、旧制第一高等学校(現・東京大学)の文学生・原口統三が、1冊の大学ノートを友人に残して入水自殺した。ノートに綴られた手記は「二十歳のエチュード」と題されて刊行され、現在まで優れた哲学的遺書・青春のベストセラーとして読みつがれている。原口と同世代の倉島斉らも、この作品に大きく影響され、島木健作らが創刊した「北中文芸」を「エチュード(習作)」のタイトルで復刊した。「エチュード」は、その後半世紀にわたって北海高校文芸部によって受け継がれ、「未来のための習作」の発表の場となっている。

幻の円山「決号作戦」 援農先でのスナップ写真(昭和17年ころ)
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものです(資料写真は北海学園提供)http://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0