第6話 闇市 岡部 卓司さん (千秋庵会長・大正13年生)
 
「この砂糖は、いったい何時、どこで、いくらで買ったんだ」
机を挟んで副検事の正面には、詰め襟の制服を着た北大生。
「でも、検事さん、あなたもヤミ米食べているんでしょう」
ヤミ買いを拒み、配給食だけに頼り餓死した裁判官の新聞記事が頭に浮かんだ。「つい、悪いことをいってしまった」と一瞬、心で思った。

「何だっ!」
副検事が気色ばんだ。
「今日で千秋庵をぶっ潰してやる」
昭和二十四(一九四九)年。岡部卓司、二十五歳のときだった。

 詰め襟姿で検事と対決
有罪判決に納得しない岡部は、札幌商業の先輩でもある弁護士・中山信一郎(昭和4年卒)の支援で最高裁まで争った。最終的に、現在の天皇の立太子に伴う恩赦で無罪となった。「戦時統制三法」制定(一九三七年)以来、国民生活を苦しめてきた統制経済は、昭和二十五(一九五〇年)年、ようやく解除され、岡部は「これで晴れてお菓子屋ができる」と喜びをかみ締めた。

「千秋庵」の暖簾が函館・末広町に提がったのは、ペリー来航の幕末期にまでさかのぼる。名称は、菓子職人・佐々木吉兵衛の故郷・秋田の「千秋公園」に由来する。二代目に腕を見込まれた岡部の父・式二は大正十(一九二一)年、札幌の駅前通に面した現在の位置(南三西三)に札幌千秋庵を開業した。

岡部は、中央創成小学校に通うころから「もなか」のあんこ付けや店番、配達、集金、仕入れの検品まで手伝った。「長男だから当然のことと思ったし、いろんなことがあるのが商売だと、まったく苦にならなかった」というように、商の姿勢や基本は自然に身に付いていった。

 札商で学んだ近代経営
「二代目として店を継ぐのだ」と常々両親からいわれ、札商進学もごく自然の流れだったが、「あきない」というよりは経営学に基づいた実践的な教育に驚かされた。簿記、会計学、商業算術などのほか、図画では今でいう「商業デザイン・工業デザイン」も学んだ。

「美術部の指導もされていた花田(弥一)先生から教わったポスターの描き方や包装のデザインなどは、その後もずうっと役に立たせてもらっている」

代表的な銘菓「ノースマン」はじめ現在では約四百種にも上る商品の包装紙の大半は、岡部が基本となるデザインを考案した。また、当時の美術部所属の札商生が、商店街のショーウインドーの飾り付けに当たっており、「社会に出てもすぐに活用できる徹底した実践学習が、札商の特徴だった」と振り返る。

札商卒業後、岡部はすぐに東京・中村屋へ菓子修業に行く予定だったが、戦局の拡大が彼の人生にも暗く覆い被さってきた。菓子屋を続けようにも、肝腎の原料の調達が難しくなっていた。将来を見越した母・とよの助言に従い、小樽高等商業学校(現・小樽商大)に進むことを決意した。

 ゼロ戦工場で迎えた終戦
札商は本来進学校でなかったため、急きょ進学を決めた岡部にとって、受験勉強は辛かった。それでも、教師らの励ましが大きな支えとなり、英語の柿崎源太郎に勧められて読みあさった英雄伝から「苦しかった若者時代の生きざま」を学んだことも力になったという。

小樽高商時代は、あこがれの寮生活を送るなど初め青春を満喫したが、間もなく勤労奉仕で北大の北側にあった札幌飛行場の滑走路整備に駆り出され、援農そして軍事教練の連続が常態化していった。昭和十九(一九四四)年九月、繰り上げ卒業と同時に、東京築地の海軍経理学校主計見習尉官隊に入隊した。

悲壮感はなかった。「おれが行かねば戦争に勝てない」。むしろ意気揚々としていた。訓練は厳しかったが、札商時代に教練の南留三郎に鍛えられていたので、成績はトップ、東西に分かれての陸上演習では東軍の大隊長を務め勝利した。

しかし、翌年三月十日、夜空を焦がす東京大空襲を、勝ち鬨橋近くの学校の見張り所で間近に目撃した。四月に茨城県土浦の第一海軍航空厰に移ってからも、空襲が続いた。ゼロ戦の製造やロケット兵器などを開発していた航空厰も標的とされた。防空壕から事務所に戻ると、ロケット弾により天井に無数の穴が開き、「まるで星空のように見えた」という。

 藻岩の山影に励まされ
勝利を疑わなかった岡部は、敗戦が信じられなかった。「奈落の底に落ちるような思い。復員列車に揺られながら、北海道の山にこもってパルチザンのように抵抗しようとも考えた」。
ところが、列車が小樽を過ぎ、琴似に差しかかったころ、かつて見慣れた山影が迫ってきた。懐かしく、そして神々しくも見えた。

晩鐘ひとたび高鳴れば
藻岩のふもと豊平に
高き望みを胸に秘め

札商の応援歌・優勝歌が遠くかすかに聞こえたような気がした。
そのまま札幌駅には降りず両親の疎開先の三笠市市来知(いちきしり)に向かった。数日後の夜—。

「父さん、千秋庵を昔の姿に戻しましょうよ」
「それには、みんなで力を合わせなければなあ」
父は、うれしそうに答えた。

昭和二十一(一九四六)年、喫茶店として開業したが、統制経済下で菓子屋の営業許可は下りなかった。それでも、農家から分けてもらったくず豆を炊いて団子を作り紅茶と一緒に出すと、客は大喜びだった。

 世界と交流し生み出した銘菓400種
ある日、岡部は、懐かしさから札商を訪ねた。「とっつぁん」こと校長の戸津高知の笑顔がそこにあった。除雪作業などで家計を支える彼の窮状を知った戸津は、英語と簿記の教師として受け入れてくれた。一年ほど教鞭を取った岡部は、新しい時代の経済を学ぼうと、新設されたばかりの北大法文学部に入学した。

砂糖のヤミ買いを摘発されたのは、この時代のことだが、統制経済の解除と卒業と同時に、事業を本格化させた。千秋庵を法人化すると、「お前が一からやれ」との父の言葉に従って社長となった。クリスマスケーキの普及に象徴されるように洋菓子の売上が急増し、やがて、バター饅頭、チョコレート饅頭など和洋混交の「第三の菓子」がブームを呼び、千秋庵も大きく成長していった。

 音楽の国・オーストリアの名誉領事を務めたのをきっかけに、欧米や中国などとの技術交流も深め、新しいお菓子文化も育てる。「作家や作曲家が小説や音楽を生み出すように、お菓子の可能性は原料と製法の組み合わせで無限に広がっていく。また、同時に、江戸以来の御菓子司としての原点も大切にしたい」。菓子作り一筋の道は、まだまだ続く。

(敬称略)



-MEMO-
尖塔に秘密 
銘菓「山親爺」で知られる札幌・千秋庵の本店(南3西3)は、ヨーロッパ風の塔屋が目を引くが、よく見ると形状の異なる建築物の集合体で一つのビルを成していることが分かる。業績に応じて継ぎ足し、積み上げてきたためで、慎重な経営姿勢と歴史の象徴ともいえる。その集合ビルの中央にある尖塔には、からくり時計が仕組まれている。時報を告げる時刻になると、窓が開き、北大寮歌「都ぞ弥生」のメロディーに合わせて、クラーク博士や屯田兵などの人形がゆっくりと回り出す。高層ビル群に囲まれながらも、この瞬間だけは、足を止めると、開拓時代の雰囲気に浸ることができる。
俺が行かねば日本は勝てない 出征兵の見送り風景(昭和17年ころ)
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものですhttp://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0