第4話 進駐軍 朝倉 賢さん (作家・昭和7年生)
 
 中学二年生だった私は、豊平から家へ帰る途中、豊平橋の手前で警官に制止された。「アメリカ軍が来る。かくれろ」。私はあわてて石造り倉庫の陰に逃げ込んだ。サーベルを下げた警官は私よりもっとおびえている様子だった。
轟音が次第に近付き橋を渡る気配があった。
(「札幌街並み今・昔」より)

 昭和二十(一九四五)年十月六日。北海中学の生徒の多くは、まだ援農に出ていた。防空要員として残った朝倉賢らは、毎日が校舎の補修作業。前日、占領軍が小樽に上陸したことは聞いていたが、学校帰りに出くわすとは思ってもいなかった。

 豊平橋で占領軍と遭遇
 「陸軍の月寒連隊を占領しに行くのか」「第二十五連隊(第七師団)との間で戦闘が始まるんじゃないか」
 不安げな級友。朝倉は、戦時中に豊平橋で見かけた日本軍の行進を思い起こしていた。ところが、間もなく現れた占領軍は、全員がジープや装甲車、幌付きトラックに乗り込み、歩いている兵士など一人もいなかった。

 「兵士は歩くものだと信じていたので、妙な気がした。機銃の銃口はすべて両側の家並みに向けられ、手は銃把にかかっていた。本当に恐かったが、負けるはずだよなとも思った」
 
 三連の鋼鉄アーチの下で占領軍と出くわした日。これが、十四歳の少年の「敗戦を確信した日」となり、やがて教科書にスミを塗る日を迎えて、敗戦の意味を知る。

 教科書に墨を塗った日
 秋。正確な日時の記録はないが、北中生にとっても、その日の情景は鮮烈に記憶の中に残っている。
 白々と冷たい陽光が差し込む教室。
「次、○○ページの○行目から、そのページの終わりまで」

 感情のない先生の声。ある生徒は、奇声を上げながら塗りたくっている。行を間違えてスミを塗り、頭を抱える者。スミが乾かぬまま閉じたページがくっつき、一心に引きはがそうとする者。変に騒がしく、また、妙にシンとさえわたった空間がそこにあった。

 「スミ塗り」は、戦前の教育が極端な軍国主義体制を支えてきた、とする連合国軍の認識を踏まえた措置だった。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、十月から十二月にかけて、軍事教育の廃止や教科書の削除などを含む教育改革の指令を相次いで発している。

 国語、国史などの内容は、確かに侵略主義的な戦意高揚につながるものだったが、少年らには割り切れないものがあった。朝倉は「ベタベタとスミで消していきながら、僕は『今何か最も大切なものが抹消されていっている』という思いを棄てることができなかった」と振り返る。

 覇気を取り戻した北中生
 このころ、GHQの「日本教育制度ニ対スル管理政策」に基づき、教練担当の教師は辞職、昭和二十一(一九四六)年六月には、教職員の適格審査がスタートした。審査とは別に、少なからず戦争遂行体制に組み込まれてきた教育の責任が問われ、教師もどこか自信を喪失した状況が続いた。
 しかし、そんな大人たちの戸惑いをよそに、北中生たちは、新しい時代の風を受けて覇気を取り戻していった。

 教育基本法・学校教育法の制定(一九四七年)により、六・三・三・四制が導入され、昭和二十三(一九四八)年四月に新制高校が発足した。旧制・北中の五年生となる朝倉は、新制・北海高の二年生に移行したが、旧制中のまま五年修業を希望する同級生は北中五年生として翌春卒業することになった。

 ある日、朝倉の所属する演劇部に衝撃的なニュースが飛び込んできた。道立札幌第二高校(現・札幌西高)の演劇部が「ベニスの商人」を上演した│。
「『ベニスの商人』ぐらい、どうということはないだろう」
「演目じゃないんだ。女性が客演したんだってよ」
演劇部の面々は、色めき立った。

 「男女競演」に沸き立つ
 教育新法は、男女共学を原則に掲げたが、旧制中学・高等女学校の多くは男子高・女子高校として存続。公立高校の共学化もすぐには実現しなかった(札幌西高は一九五〇年から)。そんな中で、「男女共演」は確かに事件だった。

 朝倉は、知り合いのつてを頼り札幌市立高女(市立第一高校、現・札幌東高)の演劇部員に客演を申し込んだ。演目も決まっていなければ、学校にも相談せずの突撃的な出演依頼だったが、意外にも返ってきた答はOK。

 「女学生参加」の噂は、瞬く間に校内に広がった。そうのち、「俺も出演させろ」という押し掛け組が現れ、注目度も高まるに連れて、上演準備に熱がこもっていった。出し物は、久米正雄作の「むしばまれた果実」と、グレゴリー夫人作の「月の出」。数学教師の坂下正雄を「防波堤役」の顧問に、音楽教師の渡辺七郎に劇中歌の作曲を依頼し、ついに中央公民館の舞台の日を迎えた。
 放送作家としてペンを振るう
  「女学生が登場すると、急に観客席が静まり返り、生ツバを飲み込むような雰囲気になった。男女共学になるまで、北海の校舎に女子高生が堂々と出入りしたのは、この練習のとき以外になかったのでは」

 そう回想する朝倉も、上演が終わると急速に演劇熱が失せ、小説に関心が向いていった。北海道学芸大札幌分校から中学校教師時代は、「月の出」を熱演した北海高同期の吉原達男らと「凍檣(とうしょう)」「くりま」の同人としてペンを振るった。札幌市職員となった昭和四十年代には、「墓地」「湿原」「柱状節理」「来訪者」などの小説で頭角を現し、その後は、ラジオドラマの執筆にも力を注いだ。

 実際にあった航空事故を題材に、生死を分けた三人のギタリストの運命をドキュメント風にドラマ化した「アグアドの首」は、国際ラジオドラマコンクール・イタリア賞の候補作品となった。

 札幌市の市民局長、収入役などを歴任し、札幌市民芸術祭実行委員長などとして芸術文化の向上に貢献している。「北風の匂い」「さっぽろ街並み今・昔」などのエッセー集には、札幌という街を暮らしレベルで見つめてきた確かな視点と、ふるさとに対する愛着が滲み出ている。
(敬称略)



 -MEMO-
 自主公演に4千人 
 昭和22(1947)年9月、「祝・憲法公布記念」と銘打って、北海高校の第1回文化祭が開かれた。このとき演劇部が上演した小山内薫作「息子」が、いわば旗揚げ公演。以降、主任の海保紀元(昭和25年卒)らが中心となって、学校の援助を仰がない自主公演を続け、同24(1949)年5月上演の「修善寺物語」(岡本綺堂作)「白鳥の歌」(チェーホフ作)は、会場の中央公民館が約4千人の観客であふれた。朝倉賢は「当時、もしVTRがあって、今これを再現できれば、恐らく現在の学校演劇の水準をはるかに超えているはずだ」と評する。熱狂的な演劇マニア・加藤憲(昭和25年卒)は、朝倉を誘って札幌劇場の楽屋に前進座の河原崎長十郎を訪ね、指導を受けた。

 -MEMO- 
 演劇ブーム 
 終戦からわずか3か月後の昭和20(1945)年11月、辰木久門らによって札幌に自由劇場が創立された。翌年4月の初公演の演目は、辰木演出による「若き木」(藤森成吉作)などだった。同じころ、北海道農業会や帝繊札幌工場、苗穂工機などに相次いで職場演劇団が誕生し、同22(1947)年3月には、札幌演劇文化協会から「演劇文化」が創刊された。翌年5月には、自由劇場と職場劇団、北大演劇研究会の合同で菊田一夫作「堕胎医」が上演された。前進座や長谷川一夫の新演技座などの北海道公演も行われ、束縛された時代からの解放感が演劇ブームを呼んだ。これらの影響もあり同23(1948)年、道立札幌二高(現・札幌西高)の小野栄一(後にボードビリアン)らによって札幌高等学校演劇連盟が結成された。

演劇にぶつけた青春の情熱 演劇上演を終えての記念写真(昭和23年)
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものです(資料写真は北海学園提供)http://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0