第8話 復興へ 三神 純一さん (北海道中小企業同友会代表理事・昭和7年生)
 
 札幌市北一条西三丁目。時計台近くに一軒の和菓子屋があった。暖簾は「エミヤ」。大正十五(一九二六)年創業の小さな店だが、当時としてはハイカラな片仮名の屋号と味が評判で、繁盛していた。

 「エミ」は「笑み」。店の長男・三神純一は、幼いころから聞かされた父・一の言葉を覚えている。「商人は常にほほ笑みをたたえていなくてはならないんだよ」。しかし、戦争が人々から笑顔を消し去っていった。

 家業の菓子屋は開店休業
 昭和二十(一九四五)年夏。店は休業し、家族は当別村に疎開していた。北海中学一年生の三神は、援農で集結することになっていた札幌駅に向かう途中、グラマンの急襲を受けた。近くの防空壕に飛び込んだ真上を、機影が低空でかすめた。玉音放送は雨竜村の農家で聞いた。

 「エミヤ」の看板は残ったが、店頭に菓子が並ぶことはなかった。ヤミの原料を使うことを嫌った父は、友人の助言で電線販売を始めたのだ。東京へ行っては電線を買い込んでくる父の姿を見て、「子供心にも不思議に思った。しかし、今思えば、勇気ある決断だった」。

 店先に積まれた電線に目を止めたのが、農家の人だった。「これは売ってもらえるのか?」。戦後の農村部では、電線を用意できた家を優先して電力が供給された。「あそこに行けば電灯線が引ける」。電機資材卸業として再生するエミヤ。実直だが、熱意と誠意、創意にあふれた父の姿が、やがてその子にも受け継がれていく。

 学生合唱団がNHK出演
 少年時代の三神はひ弱で、教室で人工太陽灯を浴びるのが日課だった。しかし、北海中には冬でも電車に頼らず徒歩で通い、日に日に体は鍛えられた。「体が弱いという劣等感がなくなり、自分に自信が持てるようになった」から意欲的に物事に取り組んだ。軍隊帰りのひげ面も混じった独特な雰囲気の校内で、風紀委員も務めた。「ずっと年上の生徒を恐る恐る注意すると、軍隊経験者ほど快く従ってくれた」という。

 戦争からの解放感から北中生は、運動や文化活動などに情熱を注ぎ、「もともと音楽を聴くのが好きだった」三神は、コーラスグループの結成を呼び掛けた。十五人ほどの少人数ながら、NHKのラジオ放送にも出演した。六十年を経た今、曲名などは思い出せないが、録音で聞いた自分たちの歌のお粗末ぶりに赤面したことだけは、鮮明に覚えている。それでも、若く明るい北中生の大合唱が、戦争の痛手から立ち直ろうとする人々に対する応援歌になったことは、容易に推測できる。

 個性豊かな仲間たちと切磋琢磨し、たくましさを身に付けた三神は、法政大に進んだ。「独立して勉学に励みたいという思いと、東京を見たいという気持ちがあった」。父も賛成してくれ、一人暮らしが始まった。「勉強だけでなく、さまざまな経験ができ、自分が見えるようになった。独立心も養われた」と振り返る。

大学でも音楽部に所属、フルートを担当しながらリーダーも任された。午前はジャズで午後はクラシック、という一風変わった演奏会を開き、利益が出るほど大成功を収めた。やがて卒業が近付いたある日、父が聞いてきた。「自分の代で終わらせてもいいのだが、どうする?」と。

 倉庫暮らしの修業時代
 この言葉を三神は、「継いでほしいという父の本音の裏返しと思った」。二十二歳で菓子屋を創業した日は、母の話でしか知らないが、寡黙な職人としての姿を見てきた。突然菓子作りをやめてリュックやリヤカーで電線を運ぶ日々が続いたころの父の背中を思い起こした。「エミヤを継いで大きくしよう」。決意を固めた。

 取引先での修行が始まった。半年は東京の、もう半年は大阪の会社で働いた。「二代目ということで周りから冷たい視線を浴びたが、それを跳ねのけるために人一倍努力した」。夜中に寮を抜け出して倉庫へ。五千以上もある商品の一つ一つをカタログとつき合わせながら、知識を頭に叩き込んでいった。

 幹部も舌を巻いた。「ここではもう教えることはなくなったよ」。二年の予定が一年で修行を終えると、エミヤに入社。昭和三十一(一九五六)年、一社員からのスタートだった。営業にも長く携わり、給与はなかなか上げてもらえなかった。妻子ができても倉庫の二階で生活し、休日の来客の対応を任された。

 「この時期の苦労が糧になった。父は朴訥な人で、言葉では言わないが経験させることで教えてくれた」。思い返せば、北中生時代には度々銀行へ入金に行かされた。金銭感覚を身に付けるための修行は、この時から始まっていたのかも知れない。専務に就くころには、毎朝十五分から一時間かけて経営の現状や方針などについて父と意見を交わし合った。
 
 逆風下で受け取った経営のバトン
 社長の椅子に座ったのは、昭和五十(一九七五)年。第一次オイルショックが景気を直撃し、前年の経済成長率は戦後初めてのマイナス(一・二%)となり高度成長時代は終焉を迎えようとしていた。あえて苦しい時期のバトンタッチにも、父の思いが込められていた。「経営の修羅場を経験させてくれた。苦労を知ることで成長できた」ことを三神は今、しみじみとかみ締める。

 エミヤはその後二つの危機に直面した。社内の不協和音と東京支店を撤退する際のあらぬ噂。社員を小グループに分けて直接対話する「何でもしゃべろう会」を三年ほど続け、経営者と社員の相互信頼が中小企業の基盤となることを改めて痛感した。倒産の噂には各銀行を回って必死に説明した。この騒動から、「膨張ではなく成長しなければならない。その時良いと思っても、後からみて失敗ということもある。地に足をつけて先を見据えることの大切さを知った」。

 足元を固めて、先を読む。三神は、次のオイルショックも予め立てた対策で乗り切り、昭和六十二(一九八七)年には道内業界のトップを切って年商五十億円を突破した。CI(コーポレート・アイデンティティ)をいち早く採り入れて、経営の理念と戦略を明確にした。環境リサイクルや介護福祉など時代の方向を見据えながら、変革と創造に邁進する。

 北海道経済の再生に邁進
 そんな経験や見識は、北海道経済の基盤をなす中小企業にも大きな刺激を与えている。道中小企業家同友会の代表理事として、北海道経済再生に向けたオピニオンリーダーも務める。特に、「地域の金融機関には大手とは違う役割がある。正当に評価しないと地元企業に金が回ってこない」という視点から、金融アセスメント法の整備を強く主張する。中小企業を取り巻く環境は厳しく、時代は激しく変化しているが、三神は決してひるまない。

 「困難突破の試行錯誤が新たな智恵を生み、その智恵による創造が価値を生む。今が絶好のチャンスだ」
 ここにも百折不撓の精神が息づいている。

(敬称略)


 -MEMO- 
 爆笑「アキレタ五人男」
 旧制の北海中学に入学した三神純一は、昭和23(1948)年の学制改革で北海高校の1年生に移行した。3年生だった同25(1950)年の文化祭は、北海学園創立50周年記念行事の一環として行われ、大運動会や芸能大会と併せて、北海・札商共同主催による全道招待弁論大会も開かれた。翌年には文化祭が学校祭に改称され、札幌市内の東、西、南、北、伏見(現・札幌工業)の各高校の講師を招待して「講和後の学生の在り方」をテーマに討論会が行われた。また、市民会館では、大谷合唱団と市内ハーモニカ連盟の賛助出演や北海ハワイアンバンドの演奏会なども開かれた。当時の北海高校新聞(第14号)は、その様子を次のように伝えている。「歌謡漫談「アキレタ五人男」が観衆の腹をよじらるほど笑わせ、笑いの連続で完全に観衆をノックアウトさせてしまった」。
中小企業の底ヂカラ 終戦直後の授業風景(昭和21年)
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものですhttp://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0