第7話 民主化 相神 達夫さん (ジャーナリスト・昭和6年生)
 
 「青年は常に真実を求める。あらゆる知性への憧憬と真実の探求は、我々のために与えられた。虚偽と欺瞞との過去は暗い。(略)混沌たる思潮の中にあって旧殻を脱っせんとして喘いでいる北海の学園に清新な気を高校新聞はもたらしたい」

 昭和二十三(一九四八)年十二月、「北海高校新聞」が創刊された。「創刊寸言」の中で編集責任者の相神達夫は、学校新聞の使命を高らかにうたいあげている。この年、教育基本法が制定され、北海は新制高校として戦後の新たなスタートを切ったばかり。四ページの紙面からは、新教育と民主的な自治を模索する学園の姿が、読み取れる。

 一面には、自治委員会議長の浜口武人が「愛校のスクラムを組まん」と題して、無気力・無理論に陥っている現代学生に奮起を促す一文。戸津高知の後を継いで校長となった大森初太郎は、祝辞の前書きで「我々は『剣をもって立つ国は、剣をもって滅ぶ』の活教訓をまざまざと教えられた」と綴っている。

 「学園に清新の風吹き込む」
 そして、一面のトップ記事は、「戦前」を引きずる応援団の民主化をめぐる議論だった。初めての正式選挙による団長選び。民主化を主張する細川崇司(昭和25年卒)の当選と一か月後の不信任案可決。応援団による暴力沙汰と新聞投書事件、応援練習への職員の参加方針│などが詳細に報じられている。

 言論の自由を背景に、高校新聞の発行は当時、全国的なブームとなった。多くは自治会の機関紙的な色合いが強かったが、「北海高校新聞」は、自治会からも学校当局からも独立し、自由な立場から編集されていた点に特徴がある。だから「自分たちで新聞を売り、広告を集めた。ほとんど独立採算だった」。

 応援団をめぐる記事にも、二派対立の背景分析とともに、対外的な影響や自治意識の低迷についての評論が加えられており、極めてジャーナリスティックな内容となっている。「三行毒舌」で相神のペンは、剣より鋭く生徒会を学校をマスコミさえも斬っていく。

 高校新聞の枠を越えた論調
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 職員が応援に出るという。なんぼ新聞で叩かれたとて、これはちと非常識。
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 某高生の刃傷事件は内済で、本校生の過失傷害は三段抜き、別にひがむ訳でもないですが。
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 今夏三度目の文化祭開かる。お祭り騒ぎのみが文化であるまい。線香花火的文化は目の毒。

 「一渉を過まれば一派の虜となり、一歩を失すれば罵諺の谷に落ちる」と相神自身が記したように、創刊号の行間には在野・反骨精神が色濃く滲み出ている。新聞部員は、二年生の中川弘一、中島一正のわずか二人。それでも、高校新聞の枠を超える紙面を作り出していったエネルギーと情熱は、いったいどこから—。

 相神は滝川市生まれで、父は戦前の北海タイムスの記者だったが、夢は小説家になることだった。読み書きは誰にも負けない自信があり、札幌一、二中もわけなく合格できると思っていたが、失敗。「庁立に進学した連中に対し強いコンプレックスを抱きながら北中に入った」。

 庁立高にたぎるライバル心
 実は、この昭和十九(一九四四)年の庁立・市立中の入試は、戦時中ということもあってか内申書と面接だけで選抜された。成績が良くても素行に問題があるとふるい落とされ、有力者の子弟らの情実合格も噂された。相神は「ペーパーテストなら負けないのに、という悔しさ・反発心と劣等感がないまぜになって、庁立組には秘かに対抗心を燃やした。各校が競って学校新聞に取り組んだころ、『一高ジャーナル』のネーミングを聞いて『さすがやるな』と思ったが、内容では絶対負けないと決めた」という。

 もっとも、入学直後は、教室は兵舎として接収され、やがて援農に駆り立てられ、ライバル意識を燃やすどころではなかった。終戦後もしばらくは荒んだ喪失感が校内に漂っていたが、「明くる年には、北海本来の自由の風を取り戻してきた。先生の多くは自信を失っていたが、生徒たちはスポーツや文化活動を好き勝手に始め出した」。

 相神が、高校新聞よりも先に手を着けたのが、文芸誌「平凡文学」の創刊だった。同志を求めて市内の学校を回り、戦前は敷居の高かった札幌高等女学校(後の札幌女子高、札幌北高)にまで足を延ばした。昭和二十三(一九四八)年夏には、九校の参加により、創刊号の発行に漕ぎ着けたが、資金難などから二号の発行までにとどまった。

 文芸誌の創刊にも情熱
 しかし、「平凡文学」の編集・発行を通じて、それまで勝手にライバル視していた一中、二中に対するコンプレックスが薄らいだ相神は、作家・島木健作が創刊した「北中文芸」の復刊を目指した。グラウンド裏の自宅六畳間の編集室に集まってきたのが、後に北海道の文壇をリードする朝倉賢、倉島斉(本名・吉原達男)らの同期生だった。

 「他校の文芸誌のように、女の子の詩や旅の思い出みたいなのは載せない」
 「先生のご祝儀原稿もお断りだな」
 「新しい文学の創造を目指す。文芸誌でなく文学誌だから短編は認めない」
 現実には女学生の詩など載せたくとも載せられないのだが、ともかく誌名は「エチュード」と決まった。創刊は昭和二十四(一九四九)年十一月。巻末には書店や運動具店に混じってビアサロンの広告も並び、資金集めの苦労をしのばせる。

 新聞記者として真実追求
 北海高、北海道学芸大を卒業した相神は昭和二十九(一九五四)年、北海道新聞社に入社。北海時代に培った「反骨・在野」の精神を記者活動で発揮し、学芸部長、出版局長などを務めた。ときに本質を衝いた鋭い筆致が反発を買うこともあったが、「言論の自由」をバックボーンに、ひるむことはなかった。「慟哭の海—樺太引揚三船遭難の記録」「処刑—あるB級戦犯の生と死」などの編集・著作には、「戦争批判を声高に叫ぶ者が少なくなった時代だからこそ、本当に何が起きたかを明らかにし、戦争の不条理を伝えたい」という思いが込められている。
 
 定年退社後もジャーナリストとして活動を続ける相神を、北海高校新聞部の現役部員が取材に訪ねてきた。孫ほどの後輩は、創刊号をめぐる特集記事に、こんな感想を添えている。
「ものを見る目を養うことが大切という話が印象的だった、やりたいことをとことんやりきった、青春時代を謳歌した姿に感動した」

(敬称略)


 -MEMO- 
 新制高校の誕生
 昭和22(1947)年、教育基本法と学校教育法が制定され、平和・民主を基盤とした戦後日本の教育の方向が明確になった。6・3・3・4制の採用により、新制中学は翌年、新制高校は翌々年にスタートした。旧制・北海中学は同23(1948)年4月から新制・北海高校に生まれ変わり、同44(1969)年まで、新制中学が併置された。移行時の札幌市内の新制高校は、道立が札幌1高(現・南)、2高(西)、女子高(北)、工業高。市立が札幌1高(東)、2高(廃校)、商業(啓北)。私立が北海、札幌商業・豊陵工業(北海学園札幌)、光星、北斗、北星、大谷、静修、藤女子。
三行毒舌の切れ味鋭く 「北海高校新聞」創刊当時の新聞部
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものです(資料写真は北海学園提供)http://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0