第9話 自由と正義 浜口 武人さん (弁護士・昭和6年生)
 
 昭和二十(一九四五)年八月。真岡中二年生だった浜口武人は、敗戦の混乱の中、樺太(サハリン)から札幌に引き揚げてきた。転校先に指定された北海中学に行くと、陸軍兵舎に使われていた校舎の窓ガラスは割れ、教室は土足に踏みにじられていた。少年兵から帰還した軍服姿の生徒も少なくなかった。

 戦前・戦中の教育の根底がひっくり返され、教師の間に戸惑いの色も見えたが、なにより平和の喜びが、北中に活気を蘇らせていった。そんなある日、浜口は、運動部の応援練習で先輩から渡された「壮行歌」の第二節の歌詞が二通りあることに気付いた。

 今朔北の覇業はなりて
 追うや征戦(聖戦)中原の夢
 悲憤の涙幾たびか垂る(語る)
 烈々もえよ 北海健児

 「聖戦」に対して、一方は「征戦」。心の片隅にひっかかりを感じながらも、声に出して歌えば音は同じだから、突き詰めることもなく時は過ぎていったー。


 聖戦ー征戦、壮行歌に二つの歌詞
 「壮行歌の謎」を解くカギは、半世紀を経て見つかった。北海高校二期生として卒業した浜口は、北大在学中に司法試験に合格し、弁護士として活躍していた。そこに一通の手紙。差出人は、昭和三(一九二八)年北中卒の政治漫画家・森熊猛で、「聖戦」の疑問について校友誌に綴った浜口の一文に寄せたものだった。

 「壮行歌」は大正十四(一九二五)年卒の輿水高二が作詞し、後に中国大陸で戦死したこと。「聖戦」という言葉が昭和初期のテロとファシズムに象徴される時代の脈絡の中で語られたこと。さらに「輿水さんが聖戦の語を使うことはあり得ない」と記されていた。それを読み浜口は「『自由と正義』を高らかに謳う応援歌を母校に残した人が、志に反して侵略戦争の中で生涯を終えるとは、なんと非条理か」と思った。

 それまで浜口は、戦時下の軍国教育の影響で多くの北中生が「聖戦」と思い込み、後輩に誤り伝えられてきたと考えていた。また一方で、北中の知恵者が配属将校の目を欺き「自由と正義」の壮行歌を堂々と合唱するために仕組んだ可能性も棄てきれないでいた。その痛快な仮説が、森熊の指摘により、俄然、現実味を帯びてきたのだ。

 「意識的改作説」を決定付けたのは、「北海百年史」に残された「てっつぁん」こと島谷鉄五郎(大正10年卒、北中・北海高教師)の回想記だった。島谷は「壮行歌は三十四期(昭和14年卒)の細川季三君の作詞で伊福部先生の作曲、『雄々しく征けよ』と元気づけた団長は在竹隆君である」と書き記していた。

 浜口がまず注目したのは、細川・在竹の記述から「作詞」が昭和十三(一九三八)年ころの出来事だった点だ。当時の日本は、中国東北部(満州)を起点に、北京・上海・南京から徐州・広東・武漢へと戦線を拡大していた。問題の北中壮行歌の一節「朔北の覇業はなりて・追うや聖戦中原の夢」。原詩の「征戦」ではなく、「聖戦」とはめ込めば、なんと、歌詞そのままの情勢が中国大陸で展開されていたことになる。

 軍歌に代えて壮行歌を大合唱
 もう一点は、「伊福部先生」が札幌二中生時代に輿水の原詩に曲を付けた伊福部勲その人であること。「征戦」が本来の詩であることを知っている伊福部が、再び壮行歌の「作詞」に関わったとなれば「それは原作の歌詞を改変する『改作』作業であったことは疑問の余地がない」。

 壮行歌誕生から八十年。浜口は、弁護士らしい緻密な調査と理詰めの分析に立って、「聖戦」の詩を伊福部と在竹ら北中生とによる巧妙な「意識的改作」と結論付けた。

 さて、問題は、なぜ戦意高揚歌に見せかけてまで北中生は壮行歌を歌おうとしたのか。配属将校の目を欺いてまで、壮行歌の大合唱にこだわったのか—。
 答えは、壮行歌の第一節にあった。

 藻岩の峰に旭日映えば
 風は緑だ 矛持つ友よ
 自由と正義は母校の心
 雄々しく起てよ 北海健児

 意識的に「改作」の陰に北海リベラリズム
 文武両道・質実剛健・百折不撓と並んで語られる北中の校風「自由と正義」。この言葉は、壮行歌に前後して作られた応援歌にも歌い込まれている。浜口は、こうとらえる。

 「開拓地・北海道の進取の気風と純朴な剛健さ。札幌農学校の自由教育につながる道内初の私学としての気概。これらが大正デモクラシーの時代状況とも結合し培養されていったのが、『北海リベラリズム』ともいうべき校風だったのではないか」

 確かに、この時期に、北中からは政治・経済・哲学・文学・芸術などの分野に多くの逸材が送り出され、壮行歌・応援歌を背にさまざまなスポーツで北中生が活躍した。だから、壮行歌第二節の本来の意味は「朔北の覇業=全道制覇」をなしとげて、「中原=全国大会」の戦いに「征こう」とする選手たちを励まし、送り出そうとするものだった。

 戦時下にあって「征戦」が「聖戦」に置き換えられたように、北中生はバットを銃に持ち替えねばならなくなった。それでも「北海リベラリズムは力強く生きていた。軍歌ではなく、自由と正義の精神を込めた壮行歌で見送ったのは、時代の流れに対する大胆な抵抗ではなかったのか」。浜口は、そう確信している。

 自治・自律の気風取り戻す
 敗戦の混乱の中、北中に転校してきた浜口は、校内弁論大会で優勝した。「北中生に訴える」と題して、「優れた先輩たちの歴史と伝統があるこの北海の、現在の乱れた校内と学生たちの生活は嘆かわしい」と本音で語りかけたところ、上級生を中心に共感を広げた。このころから生徒による自治・自律の気風が徐々によみがえり、転校生は自治委員会の議長も務めた。

 そんな折、「壮行歌改作」を彷彿とさせるような出来事が起きた。
 昭和二十四(一九四九)年、北海・札商両高校にも学生運動の波が沸き上がると、左翼勢力に対する弾圧も強まった。当時の状況を浜口は「札幌一高、二高などでは学校側も抑圧的な姿勢を取ったが、北海・札商両校はこれを黙認してなんらの抑圧も加えなかったばかりか、警察の介入から生徒たちを守り抜いた」と振り返る。「自由と正義」の校風は、戦後もなお息づいていたのだ。

 また、「自由と正義の母校の心」は、浜口自身も確かに受け継いでいた。後の弁護士活動は、その精神の具現にほかならないからだ。

 北海壮行歌と同じく大正デモクラシーの風を受けて結成された自由法曹団と日本労働弁護団に所属。民主主義と人権、平和と独立を守る裁判に携わっていった。朝日、毎日、日本海、北海タイムスなどの新聞労組の権利確立・企業再建や、六〇年安保闘争関連の事件などで多くの実績を残した。

 母校の精神を体現した弁護士活動
 自衛隊の本質を問うた「恵庭事件」で無罪判決(確定)、「長沼事件」では一審の札幌地裁で画期的な違憲判決を勝ち取った。この判決は後に覆されるが、司法の反動化の表れともされた控訴審で、住民側弁護団は決然として「国民と歴史の名において」裁判官の忌避(不公正を理由とした裁判からの排除)を申し立てて争った。

 「自由と正義の精神を、自由と平和への想いを持ち続けてほしい。時代の行進に足並みをそろえず、立ち止まり考えることを忘れずに。そして、若い時代はやり直すことが出来る。勇気を持って引き返す事も大事。信頼できる先生・家族・友人に相談することも一つの手段。思い悩むときは母校に帰ってみてはどうだろう」
 浜口は今、北海の後輩にこんなメッセージを贈る。

(敬称略)

 -MEMO-  
 銃器室は自治会会議室に
 生徒の自治精神によって運営されていた北中協学会は、戦時下に「学校報国団」と改められた。昭和20(1945)年9月の文部省通牒により協学会は復活するが、同23(1948)年の新制高校発足に前後して役員の選挙制の導入など、新たな自治活動が模索された。翌年4月には、旧・銃器室を改造して自治会会議室が設置されている。
 戦後民主化を背景にした自治意識の高まりを伝えるエピソードとして「頭髪の自由問題」がある。自由化を求める生徒に対して、校長・戸津高知は「髪を伸ばしてもいいが、大人の真似をするだけでは立派になれない」と説いたため、誰も伸ばそうとしなかった。しかし、自治委員会議長の浜口武人らが「説教に負けてたまるか」と率先して髪を伸ばし始めると、長髪にする者が増えていった。処分も予想されたが、学校側は生徒の自主的な判断を容認した。浜口は「校長は保守的でありながら、いろいろな考え方を受け入れる人格者だった」と回想する。

「聖戦」の謎に迫る 北中応援団の大合唱(昭和11年)
註:この記事は「北海学園120年の120人」(百折不撓物語)から抜粋・再編集したものです(資料写真は北海学園提供)http://com212.com/212/data/profile/profile3.htmlshapeimage_7_link_0